もしも

「明日世界が滅亡するとしたら、大将は何がしたいですか?」


事務所に入るなり助手からそんな言葉が飛んできたのは、青空が綺麗なある春の日のこと。


***


「ま、まさか本当に全部やるとは思わなかった⋯⋯」


事務所のソファーで通帳と財布の中身を確かめては青ざめる、という行為を石動はかれこれ十回は繰り返していた。


事務所の扉を開けた途端に助手から「明日世界が滅亡するなら何したい?」という、無人島に持って行くなら何か? と同じくらいよく聞く問いを投げられた。だから石動は少し悩んだ後、美味しいご飯と高い酒をしこたま楽しみたい、と答えた。他にも色々と言った気がする。だって絵空事なんだから。そしたら我が助手はこう言ったのだ。


──じゃあ今日それ全部やりましょう、と。


あれよこれよという間に気がつけば石動は、海の近くの美味しい店を食べ歩き、助手のアントニオは店員の目も気にせず全ての料理を激辛にし、夜はよれた紺のスーツを着て無駄に高いレストランで食事した。とても堅苦しかったが出てきた料理はとろけそうなくらい美味かった。


そして今はレコードを流しながらその辺で買ったやたら高い酒を開けたところだ。アントニオがグラスに注いでくれたが今日の出費を考えると最早それどころじゃない。


「こ、こんな贅沢できる身じゃないのに⋯⋯」

財布を持つ手を震わせていると、元凶のアントニオはまあまあ、と笑いながらグラスを掲げる。

「ほら、酒でも飲んで忘れましょ。大将弱いからしこたまは無理でしょうけど、少量でも楽しめると思いますよ」

「他人事だからってお前⋯⋯」

「他人事だなんて。減給首切り覚悟の上です」

そう嘯くアントニオの手からグラスを受け取って、石動はぐっとそれを呷った。甘くて飲みやすい。


「まあ、使っちゃったものはしょうがないか! 今までだって何とかなってきたんだし、今回も何とかなる! ⋯⋯よな」

「良い飲みっぷりですよ大将!」


アントニオがわざとらしく囃し立てる。少し酒が入っていい気分になった石動は現実から逃げることにした。


「そういや、お前の意見全く聞いてなかったな。アントニオは明日世界が滅亡するなら何がしたいんだ? 折角だから叶えようじゃないか」

「⋯⋯良いんですか?」

「そういう日なんだろ? ここまで来たら今日は散財デーだ! とはいえ今日も残り僅かだから、出来ることっていうのも少ないけど」

「アタシは──」


アントニオは石動の方へ手を伸ばして、しかし触れる前に手を握りしめて引っ込める。その仕草の意味が分からず首を傾げると、アントニオはふ、と笑った。


「大将の傍に置いてもらえるだけでいいですよ」

「⋯⋯そんなこと言っても給料は上がらないぞ」

「減給覚悟の上って言ったじゃないですか」

アントニオは自分でグラスに酒を注ぎ水のように飲んでいく。


「滅亡する前にしたい事っていうのはあるんですけど、アタシの場合、逆に未練が残りそうなんですよね」

「よく解らないな。何もせずに終わったほうが未練にならないか?」

「名探偵らしく考えてみてください」

「ううん⋯⋯そういう謎解きは僕の専門外というか⋯⋯」


しばらく石動はうんうんと唸って思考を巡らせたが、ため息をついて両手をあげた。


「無理。お手上げだ。意地悪しないで教えてくれよ」

「諦めが早すぎませんか大将」

「探偵ってのは引き際も大事なんだ」

そんな言い訳を石動は如何にもプロの言葉という風を装って言ってのけた。それに対してアントニオは呆れの眼差しを向けながらも、何も言わずに黙り込む。


「そんなに言いづらいことなのか? ま、まさかこのダムオックスおよび僕への不平不満⋯⋯!?」

まさか! とアントニオは慌てて手を振った。

「 いや、大将に対して言いたい事っていうのは間違ってないんですけどね⋯⋯。言わないと始まらない事でもありますけど」

「何だよ、そこまで言ったならもう全部言ってくれよ。もやもやするじゃないか。やっぱハンモックじゃなくてベッドが良いとか?」

「別にハンモックは──ああ、はい。分かりました。言いますよ。言えばいいんでしょ」


石動は若干不安になりながらも助手の言葉を待った。アントニオは散々逡巡したあと、そろ、と石動の方を見て、恐る恐る口を開けた。


「その、じゃあまず⋯⋯大将は、好きだって言ったら、アタシに付き合ってくれますか?」

「僕でよければ付き合うぞ」


そう笑えばアントニオは目を見開いて固まった。今日は散財デーだって言ってるだろ? 何が好きなんだ? と聞けば、ああそうか、と天井を仰ぐ。


「間違えた。そうですね、そういう意味になりますね。やっぱり日本語って難しい」

「いや、どこもおかしくなかったと思うけど」

「だから難しいんですよ」


今日のアントニオは謎掛けのような事ばかり言うな、と不思議に思っていると、アントニオは盛大に溜息を吐いた。


「でも本当に受け入れられても未練が残るんだよな⋯⋯」

「は?」

「いーえ、何でもありません。アタシがやりたいことは明日やります」

「きょ、今日みたいな高級店はもう無理だぞ⋯⋯」

「大丈夫ですって。お金の心配はしなくていいですよ。だって──」


その後小さく呟いたアントニオの言葉は、外から響いた雷のような音でかき消された。



雨も降っていないのに、嵐が近いんだろうか。


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