影法師

レッドが失踪してからもうすぐ一年が経とうとしている。


リベンジすら許されなかった俺はただ毎日を無為に過ごしていた。それから脱却しようとジムリーダーに就任したものの、昔のように情熱が湧き上がることは無かった。なんて意味のない人生だろう。



ある夏の日、ふとマサラタウンに帰った。何故だか今ならレッドが帰ってきているんじゃないかと、急にそんな風に思えてきたのだ。


草むらを抜けて町へ入ると、早朝だったせいか外には誰も居なかった。この閑散と澄んだ空気は嫌いじゃない。活気づいている訳ではないけど、強い生命力を感じるような。


何となく研究所へと歩を進めると、視線の先に影を見つけた。誰も居ないマサラタウンの真ん中で、主のない影法師が手を振っている。そしてそのまま川の方へ歩き出した。


「なんだ? あれ」


それを見た俺の中を支配した感情は恐怖ではなく、追いかけなければ、という義務のような衝動だった。


影は川をゆっくり渡っていく。この先はグレン島に繋がっている。なみのりを使えるポケモンは持っていない。それでも早く追わなければいけない気がして、研究所へ走り、目を丸くした祖父の助手に手持ちのボールを押し付けた。


研究所を出て川に近づいた瞬間、まるで俺を待っていたかのように、影がすいーっと動き始めた。ひんやりと冷たくて気持ちの良い水を感じながら、泳ぐように影を追いかける。


「──待て!」




**


川を泳ぎ続けて随分と経った頃、海に出ることもなく陸地へ辿り着いた。影はいつの間にか消えていた。


そこは何故かマサラタウンだった。いつもの家と研究所、そしてたくさんの見慣れない人たちが楽しそうに笑い合っている。そして驚いたことに、全てのものに影が無かった。


暑すぎることも寒すぎることもない春のような日差しの下に、レッドがいた。


こちらに気付いて手を振るレッドに近づくと、「どうしたの」と優しく微笑まれた。そんなレッドの足元にも影が無い。


「ここ、どこ?」

「どこって──マサラタウンだけど」

「ああ、うん、そうだよな」


変なグリーン、と笑うレッドを見ていると、何故かぞわぞわとした何かが身体を這った。


「いつ帰ってきたんだ?」

「二ヶ月前くらい? グリーンも此処にかえって来ないかなぁって思ってたら本当に来たからびっくりした」

「ふうん。あのさ⋯⋯ずっと気になってるんだけど、何でここの奴らも、お前も──影がないんだ?」


恐る恐る聞いてみると、レッドは「影?」と不思議そうな顔をした。周りにも人が集まってきて、口々に影とは何かと尋ねてくる。


そこで俺も気付いた。

影って何のことだ?


何でそんな言葉が頭に浮かんだんだろう。不思議だ。


悩んでいる俺を見かねたレッドは「取り敢えず両親に会ってきたら?」と提案した。両親? 両親は俺が幼い頃に事故で亡くなったと、そう聞かされていたけど、生きていたのか? どんな顔をして会えばいいんだろう。


レッドが俺の手を引っ張って歩き出したから、仕方なく実家へ向かう。玄関で「ここから一人でも大丈夫?」と聞かれ、子ども扱いにむっとした俺は澄ました顔で扉を開けた。


玄関で迎えてくれたのは、姉に似た若い女性と、知らない男性。これが俺の両親らしい。俺の姿を見た二人は一瞬だけ哀しげな顔をしたが、すぐに笑顔になって「今夜はあなたの好きなもの何でも作ってあげるわ」と云うので、ハンバーグを希望しておいた。



暖かい家族。暖かいベッド。家庭的な晩ごはん。幸せな空間と、強い違和感。



一晩経って目が覚めると、天気は大きく崩れて大雨だった。久々に帰ってこれじゃあツイてない。そうぼやくと父親は「それは幸せなことなんだ」と説いた。意味がよく解らなかった。


そしてその日の夜、俺は高熱を出した。身体中が熱くてたまらない。母親は「大抵の人は通る道なのよ」と微笑んだ。その隣で心配そうにこちらを覗き込むレッドは「僕にはまだ来ないんだ」とほんの少し寂しげに呟いた。こんな苦しい思いをしたいなんて可笑しなヤツだ。


次の朝、熱は治まったものの外は相変わらずの大雨だった。これじゃあレッドとどこか遊びに行くこともできない。そう文句を垂れると父親は「それは幸せなことなんだ」と説いた。解った振りをしておいた。



一週間ほど経った頃、ようやく雨は上がった。空はどんより曇り空だが、雨よりかは全然良い。あの雨の音を聞いていると、無性に泣きたくなるような気持ちになるから。


町にある川の前までやってきた俺は、この川の先がどこに繋がっているのか気になって、川の中へ入っていった。軽く泳ぎながら進んでいくと、向こうから恐い顔をした昔話の鬼のような誰かがやってきて町へと引きずり戻された。


「あの雨を見ただろう」

「貴様は石を積まねばならない」


恐ろしい声でそう脅されたので、俺は云われたとおりに石を積むことにした。鬼はどこかへ消えてしまった。


せっせとバランスを取りながら石を積んでいると、横から足が出てきて蹴り倒された。


「何するんだよ!」

「何してるの」


足の主はレッドだった。何故か怒っている。


「石を積めって云われたから、積んでるんだよ」

「君ってそんな真面目なヤツだっけ?」


転がった石を拾おうと手を伸ばすと、「しなくていい」とレッドにその手を掴まれた。


「あの鬼は、君を此処から追い出そうとしてるんだ。石を積み上げてしまうと此処に居られなくなる。そもそも君は積む必要なんて無いはずなんだ」

「──お前はずっと此処に居るつもりなのか?」

「グリーンは違うの?」


そう問いながらレッドは俺を抱きしめた。抱きしめられている筈なのに、触れるか触れないかの距離を持たれているかのようにサワサワとくすぐったい。


「ん、レッド、なんか」

「くすぐったい?」

「ふふ、そう、離せって」

「まだ不安定なんだろうね」


指を差し込むように手を繋がれて目の前に掲げられる。確かにしっかりと繋がっているのに妙な感触がする。


「何だこれ⋯⋯気持ち悪」

「そのうち善くなる」


そのままレッドが立ち上がるので俺も引っ張られるように立ち上がる。


「そんなことより、遊びに行こう」




**


レッドにはああ云われたがそれでも俺は石を積むのをやめなかった。レッドの目を盗んでこっそり毎日少しずつ石を積む。何個積めばいいのか知らないが、もう少しで完成するような、そんな気がした。


──あと一個だ。


何故かそう確信して、俺は近くの石に手を伸ばす。

しかし石に触れる前に誰かに首根っこを捕まれ後ろに引きずり飛ばされた。勢いよく石の塔を蹴り倒す音が聞こえる。


「どうして」


上半身を起こすと、俯いたレッドの背中が見えた。


「どうして僕に逆らうんだ」


振り向いてこちらに近づいてくるレッドの目は酷く淀んでいた。


「来る日も来る日も来る日も、望んじゃいけないって周りに云われても毎日毎日毎日僕は川の向こうから君が来るのを待っていた」

肩を押されて地面に縫い付けられる。


「そして君は来てくれた」

レッドの瞳に怯えた自分が映っている。


「だから僕は絶対に──」



──時間切れだ。



その瞬間、ふ、と力が抜けた。身体がふわふわして気持ちがいい。全てから解放されたような、そんな感覚。肩に触れるレッドの手が酷く心地よかった。


「あ、待て、レッド、なんか、変だ、俺──」


俺の様子を見てレッドは暫く呆然と固まっていたかと思えば、今までに無いくらい幸せそうに咲(わら)った。肩を押す力は弱まって、俺を包むようにくっついてきた。


「え、あ」

「気持ちいい?」

「あ、うん、きもちいい」

「そっか。良かった。ようやく君も──」


こっち側の住人だね。




それは酷く哀しい事のような気がした。



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