解っているのに手放せない

ジムリーダーとしての仕事を終えて、とっぷりと日が暮れた時間帯。寄り道もせずまっすぐ一人暮らしの部屋に戻ればレッドがいた。

扉を開けた俺を見て小さく笑う。手には二ヶ月前に渡した合鍵が握られている。まるで当たり前のようなその空間に嬉しくなって、でもそれを気取られるのは気恥ずかしくて、呆れた表情を装いながら口を尖らせて見せた。


「なんだよ、レッド。来るなら前もって言えよなー」

「⋯⋯⋯⋯」


レッドはそんな表面上の文句を受け流すように合鍵を手で弄んでいる。


「まあいいや。シャワー浴びてくる。あ、その前になんか飲み物いるか? せっかくだし用意してやるけど」


キッチンに向かおうとした俺をレッドはやんわりと止めて、手元のコップを掲げた。どうやら既に冷蔵庫から拝借して飲んでいたらしい。勝手なやつだ。まあ、全然、構わないけど。


適当な部屋着をタンスから引っ張り出して浴室へ向かう。熱めのシャワーを浴びた後、身体を丁寧に洗っていく。多分、そういう雰囲気になるだろうし。


髪も洗ってさっぱりとした。気分が良い。人の心なんで単純なもので、好きな相手が近くにいるってだけで、こんなに幸福感に満たされる。

濡れた髪もそのままに首にタオルをかけてリビングに戻ると、それに気づいたレッドが立ち上がりタオルを奪ったかと思えばワシャワシャと拭き始めた。


「わっ、いいってば。自分でちゃんと拭くからさ。それより、お前もシャワー浴びてこいよ」


俺の言葉が信用できないのかレッドはしばらく目を眇めて疑わしそうな視線を送ってきたが、頷いて素直に浴室へ向かった。


ソファーにすとんと座って、ローテーブルに置かれている、レッドが飲んでいたコップをぼんやりと眺める。


──三年。


俺とレッドの間にはおよそ三年の空白がある。

真っ白なページが続いていたその先が埋まっていったのはつい二ヶ月前のことだった。

そうだ、二ヶ月前。今でもまざまざと思い出せる、世間を賑わせた大きなニュースが流れた日。


──シロガネ山、噴火。


あのニュースが流れた瞬間、目の前がどんどん暗くなっていくようだった。何故なら俺はその一週間前にシロガネ山でレッドと三年ぶりの再会を果たしていたからだ。




**


その日、今日は真面目に仕事しようとトキワジムの奥に立っていると、ヒビキが遊びに来た。そこでレッドの話を聞かされた。


「グリーンさん、グレンで会った時、レッドさんの話してましたよね? この前その人に会ったんですけど──」

「レッドに!? ど、どこにいた!?」


後輩相手に取り乱してしまったけど、正直それどころじゃなかった。話を聞くや否やすぐさまピジョットに頼んでシロガネ山へ向かう。


久しぶりに会うレッドは昔と変わらなくて、いつも通りで、まるで三年間の空白なんて無かったかのようだった。

だから、なんだか拍子抜けしてしまって、お互い感動の再会なんて柄でもないか、なんて考えて。話もそこそこに「あんまり親に心配かけんなよ」とだけ言い残してその日は帰った。また近いうちに会いに行こうと思っていた。それなのに。



地震の影響か──


シロガネ山が噴火──


トレーナー達の素早い判断とポケモン達のおかげで幸い街の被害は少なく──


火砕流などにより危険なためシロガネ山は暫く完全封鎖──



レッドとの連絡手段は無い。あいつはポケギアなんて持ってなかったし。最悪なイメージが脳裏を掠める。

ジムリーダーなんて、やってる気分になれなくて、自宅に戻ってソファーにも座らずそのままローテーブルに突伏した。


グレンの噴火で分かっていたはずだ。どんなに強いトレーナーだって、自然の前では無力だということに。それなのに俺は、またいつでも会えると信じ込んで、レッドと大して話もせずに、無理矢理にでも連れて帰ろうなんて露ほど思わずに、あの時もし──


そんなことをグルグルと考えながら、いつしか眠りについていた。誰かに揺さぶられて目を開けると、目の前にはレッドがいた。


どうしてここに、なんて当然の疑問は浮かんでこなかった。


「──レッド」


無意識に瞳から涙がこぼれて、レッドが驚いたように目を見開く。

その瞬間、寂しさだったり愛しさだったり様々な感情がこみ上げてきた。人は簡単に死んでしまうんだ。その恐怖が生み出した感情だったかもしれない。


触れたいし、触れられたい。離れたくない。それはきっと恋に似ていた。いや、これが恋なんだ。


そこから先は思い出すのも恥ずかしいくらいに理性が飛んでいた。縋り付くように必死にレッドを求めた。昔から心に抱いていたと錯覚する想いを伝えながら、触れ合いを阻むものを脱ぎ捨てて、自分でももう訳が分からない。


それでも、レッドは戸惑いながらも応えてくれた。想像できないくらいに優しい手付きで。まるで切れることのない糸で繋がれたような、そんな気がした。


全てが終わった後、ぼうっとしているレッドに合鍵を渡した。持て余していた予備の鍵だ。


「──これは」

「──駄目か?」


会話になんてなっていなかったけど、レッドには意図が通じたようで、黙って受け取ってくれた。



それから毎週のようにレッドは部屋に来るようになった。




**


カラン、と氷の溶ける音で意識が現実に引き戻される。

レッドが飲んでいたコップに注がれていたものはサイコソーダだ。


十代の三年という月日は、どんなにそれを感じさせなくたって大きいもので。レッドは子どもの頃と随分変わったように思う。


まず、レッドは昔は炭酸をあまり飲まなかった。飲めない訳ではないけど、子どもの頃で今と同じ状況であれば果汁ジュースかお茶か、シンプルに水を飲んでいただろう。俺は炭酸が好きだけど、レッドとは好みが違っていた。


そして先ほど俺が髪を濡らしたまま出てきた時。昔のレッドなら呆れた目を向けるだけで、自らタオルで拭いてやろうなんて世話を焼くヤツじゃなかったはずだ。


他にもちょっとした仕草とか表情とか、昔と変わったなと思うことは多々あった。



ガチャ、パタン。浴室の方向から扉の音。

レッドが戻ってきたようだ。


──違うか。

三年で変わったのではなく、関係が変わったからかもしれない。


シャワーを浴びてきたレッドは、俺の髪が濡れたままなことに気づいて、自分の首にかけていたタオルを抜き取りまた髪を拭きにかかってきた。

ソファーに座って、お互い向かい合う形だ。


「──風邪引くから」

「ん⋯⋯」


暫くされるがままになったあと、俺も自分の首にかけていたタオルを取ってレッドの髪を適当に拭う。お互い拭き合う状況がおかしかったのか、レッドが少しだけ声を出して笑った。


そんな姿もまた、変わったなぁと思う。でも、その変化は嫌じゃない。


「レッド、そこ。テーブルにあるリモコン」

「⋯⋯?」

「──電気、消せよ」


タオルをその辺に放って、レッドが電気を消した瞬間、レッドの腕を引っ張りながらソファーに仰向けに寝転がる。

半開きのカーテンから外灯が差し込んで、いかにもな空気を演出する。


微かに聞こえる虫の鳴き声をBGMに、両手でレッドの顔を引き寄せた。




**


「あっ⋯⋯レッド⋯⋯」

耳を這う舌に反応して、思わず名前を呼んでしまった。はっとするよりも先にレッドの表情がわずかに歪む。レッドは名前を呼ばれることを嫌がるのだ。その理由ははっきりとは分からない。


それに対して何故かと問うことは出来なかった。不安だったから。恋人なら普通、夜のベッドで名前を呼ばれたら嬉しいものじゃないか? それなのに嫌がるということは、やっぱりレッドが俺を抱くのは、同情からなんじゃないか? もしくはただ快楽が欲しいだけで、俺を個人として意識したくないからなんじゃ──

聞いてそれが露見して、この関係が消えるのが怖かった。


他にも今の関係になってからレッドが嫌がることがある。


バトルをすること。

俺といる時にポケモンたちを外に出すこと。

トキワジムに来ること。

故郷に帰ること。


その全てが俺への拒絶のように思えて、でもこちらに向けられる眼差しは恋人のそれで、曖昧な真実をはっきりさせることが出来なかった。


髪に差し込まれる指の優しさを、なぞられる愛情を──手放したくなかったから。




**


満たされたように眠るグリーンの身体を、起こさないように濡らしたタオルで丁寧に拭いていく。ソファーでそのまま致してしまったから、ゆっくりとベッドに運んで、身体が冷えないように毛布をかけた。

少しだけ仮眠を取り、グリーンが起きる前に家を出る。


僅かに明るくなった空を仰ぎ深呼吸をしたあと、もらった合鍵で玄関の鍵を閉めた。


「──朝帰りなんて、良いご身分で」


突然横から聞こえてきた声に驚いて顔を向けると、トキワジムのトレーナーであるヨシノリが、癪に触るような笑みで立っていた。⋯⋯また来たのか。

よ、と軽く手を上げるヨシノリに思わずため息が出る。


「⋯⋯ずっとここに?」

「まさか。だいたい同じ時間に家を出ることは分かってるからさ、そろそろかなと思って来たんだ」


ほとんどストーカーじゃないか。

相手にしたくなくて、そのまま踵を返して帰ろうとすると、腕を掴んで止められた。


「リーダーは相変わらず?」

「⋯⋯⋯⋯」

「いつまでこんな事続けるつもりなんだ?」

「⋯⋯何が言いたい」


顔だけ向けて睨みつけるとヨシノリは、おー怖い、とふざけた調子で手を上げて見せた。


「もう限界なんじゃないかと思ってな」

「別に」

「毎回そうやって雑に躱そうとしてくるけど。そろそろちゃんと、これからの事、話し合いさせてもらうぞ。お前だけの問題じゃないんだから」

「必要ない」


そっけなく返すと、ヨシノリは笑みをすっと引っ込めて、真剣な表情で肩を掴んできた。無理やり合わせられる目線が鬱陶しい。



「俺はお前が心配なんだよ──ヤスタカ」





遡ること二ヶ月前。


ジムももう閉まる時間帯になり、トレーナー仲間と、珍しくも真面目に時間通りジムに立っていたリーダー、グリーンとともにトキワジムの控室で本日の反省会をしていた。反省会と言っても、ほとんどが雑談だ。


「じゃ、そろそろ解散ってことで。あ、ヤスタカ、テレビ切っとけよ」

「はーい」


リーダーに命じられたので素直に控室でつけっぱなしになっている小型のテレビを切ろうとした。問題のニュースが流れたのはその時だった。


──シロガネ山、噴火


速報だった。既に噴火は起こった後で、ジムの中にいて気づかなかったが随分と外は大変なことになっていたらしい。

とはいえこの周辺は優秀なトレーナーが多い。被害は案外少ないようだ。でも。


そのニュースが流れた瞬間グリーンが椅子から崩れるように落ちた。顔が青ざめている。

先日、一番のライバルであるレッドという幼馴染に三年ぶりに会ったのだと、嬉しそうに話していた姿を思い出す。


シロガネ山の頂上にいたらしいけど、会ったのは一週間前のはずだし、もう下りているだろう。少なくとも俺はまず最初にそういった楽観が頭を巡ったが、グリーンはそうでは無かったようだ。


何も言葉を発することもなく、フラフラとジムを出ていった。

みんなニュースに動揺してざわざわと騒がしい中、それに唯一気づきながらも俺はしばらく動けなかった。あんなグリーンは初めて見た。


「あれ? リーダーは?」


アキエの言葉に我に返って、急いで後を追うようにジムを出た。



完全に姿を見失ってしまったので、取りあえずはグリーンの自宅へと向かう。インターホンを押しても反応が無い。嫌な予感がして、ドアノブに手をかけると、鍵が掛かっていなかったようであっさりと扉は開いた。


「リーダー?」


呼びかけるも返事はない。お邪魔します、と律儀に言葉をかけてから靴を脱ぎ、リビングへと向かう。


嫌な予感は外れてくれたようで、グリーンはローテーブルに突伏していただけだった。なんて声をかけるべきなのか必死に考えながら、その背中を揺り起こす。


気怠げに顔を上げたグリーンは、こちらをぼうっと見つめた後、涙をこぼした。頬を紅潮させて潤むその瞳は、もう長いこと片思いをこじらせている人間には毒だった。



「──レッド」



そこから先の記憶は朧気だ。

覚えているのは、口から覗く赤い舌と、急くように自らの衣服を乱していく細長い指と、高い体温。


吐息混じりに呼ぶ名前に、とっくの昔に失恋していたことを知る。

それなのに、何故か失恋相手は己の下にいて、嬌声を上げていた。


そこで終わればまだ良かった。

一時の気の迷いだと割り切ることができれば。

グリーンの様子は普通じゃなかったから、上手く立ち回れば夢だったと思わせる事もできたはずだ。


全てが終わり放心している己の手のひらに降ってきた、ひとつの鍵。

形として現れた関係性。


それを手放すことがどうしても出来なかった。




**


シロガネ山から遺体が発見されたというニュースは無い。

レッドという男の生死は未だ不明だ。


もし生きている事が分かったら、その瞬間全ての夢から醒めることになるだろう。いや、醒めるなんて生易しいものじゃない。悪夢の始まりだ。



週末、ジムが終わってから。

まるで麻薬中毒患者のようにグリーンの部屋へ向かう。


冷たい玄関口。

この扉を抜ければ俺は俺じゃなくなる。

それでもこの無機質な鍵に赦されたような気になって、そっと穴に差し込み足を踏み入れる。



「レッド、今日も──するよな?」


変わらずグリーンは愛しい声で彼の名を呼ぶ。

それに応えるように触れていく。


必死に想像を働かせて、過去の幻影を追うように。

寂しさを丁寧に埋めていって、愛情で満たされるように。


首筋を、胸元を、その下の先まで、舌でなぞっていく。




想い人の求める彼を演じながら。




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