夜空に浮かぶのは

「お前って炭酸好きだっけ? サイコソーダでいいか?」

「あ、はい!」

 ヒビキはトキワで一人暮らししているグリーンの家の寝室にちょこんと座っていた。少し前、日も暮れそうな時間に珍しくも向こうから電話がかかってきて、今から家に来ないか? と誘われたのだ。

 その声がどこか不安げな気がして急いで駆けつけたものの、扉を開けたグリーンは普段と変わらないように見えた。

 サイコソーダの瓶を持ったグリーンがやってきて、ヒビキの隣に腰を下ろす。ベッドを背もたれにしてローテーブルにこつんと瓶を置き、蓋を掴んで力を入れる。

 外されたサイコソーダはプシュッと音を立てて、二人分のグラスに注がれた。

「あいつは、炭酸あんま好きじゃなかったな」

 ふと見せた淋しげな横顔に何故だか胸が締め付けられる。やっぱりいつもより弱々しい。年齢は四つほど上の先輩ではあるが、ヒビキにとっては親しい友人の一人だ。どうにか慰めたいとは思うものの、辛さを隠している相手にどう接すればいいのかヒビキには解らなかった。

「お前にバッジ渡してから、もう四年も経つのか」

「あ、ちょうどその時のグリーンさんと同じ歳になるんですね、僕」

そうだな、とグリーンはグラスでシュワシュワと弾けるサイコソーダを口にした。

「そういや、シロガネ山って結局行ったのか?」

「ああ、何度か行きましたけど──毎回迷子になっちゃうんですよね。たまに行きますけど未だに頂上に辿り着いたことないです」

「はは! お前方向音痴かよ! そういうとこ抜けてんだな。よくジョウトとカントー制覇できたなぁ」

「バトルの強さに方向感覚は関係ありませんよ!」

 口を尖らせて抗議するとグリーンは「そういう意味じゃねぇよ!」と大きく笑った。あんまり楽しそうに笑うので、ヒビキも思わずつられてしまう。

 ひとしきり笑った後、ふと部屋に沈黙が落ちた。それがどうにも気まずくて、次の話題を探そうと必死に脳内の引き出しを開けていくと、グリーンはトン、とヒビキの肩にもたれかかった。甘ったるい花の香りが鼻を掠める。いつもは爽やかな柑橘なのに。香水を気分で変えただけなんだろうと思いつつ、何だか変な気持ちになりそうになって慌てて顔を逸らした。

「お前って、優しいやつだよな」

「そ、そうですか?」

「ああ。ポケモン見てると解るよ。それに電話したらすぐ来てくれるしさ」

 その行動と言葉の意味が掴めなくて、妙に緊張してしまう。グリーンはまた暫く黙っていたかと思うと、はぁ、と息を吐いた。

「お前さ、男って、抱ける?」

 一瞬何を云われたのか解らなかった。そんな言葉がこの人の口から出るなんて思いもしなかったから。

「それは、どういう──」

「ああ、うん。そうだよな、解らないよな──自分でも今のは[[rb:狡 > ずる]]いって、そう思うよ」

 澄んだ水に寂しさを溶かしたような、そんな声。グリーンはこちらに顔を向けると、ベッドの縁に両手をつくようにしてヒビキを閉じ込めた。熱っぽく潤んだ瞳が、胸の鼓動を早くさせる。グリーンの唇がヒビキの耳元に近づく。

「──抱いてほしいんだ」

「だ、れを──」

 分かりきった質問にグリーンはふ、と表情を和らげた。

「俺のこと」

 その姿が、あまりにも危うかったから。

 突き放せば壊れてしまいそうな、そんな気がしたから。

 理由は聞いちゃいけない気がしたから。

 だから僕は──



 あの過ちのような一夜から、ずるずると妙な関係が続いてしまっていた。

 人間が単純なのかヒビキが単純なのか回数を重ねるごと愛しさが募り、何とかこの人の心の隙間を自分で埋めたいと思いつつ、グリーンの真意を考えては憂鬱になる悪循環を繰り返している。

 夜空に咲く花のように、すぐに消えてしまう瞬間。そんなものを残すことに何の意味があるだろう。花火ならまだ心に幸せを残してくれるけど、あの行為はただただ濁った泥水を胸の内側に溜めていくだけだ。

 寂しいんだと自嘲する横顔を見ていると、まるでヒビキにはその隙間を埋める力は無いと突きつけられているようで、苦しくなる。

 いっそ離れてしまいたいのに、一瞬でも引き止められてしまえばもうどうする事も出来ない。グリーンの心を支配しているだろうあの人は、ヒビキと同じ状況で、それでも手を振り払って消えてしまったんだろうか。

「どうした?」

 ジムの執務室。そこで書類と向き合うグリーンをソファーからぼうっと眺めていると、声を掛けられた。何でもないです、と返そうとして、やめた。心の全てを読まれてはいないだろうけど、それでもどこか見透かされているような、そんな気がする。

「好きですグリーンさん」

「ははっ、お前って可愛いやつだな。俺も好きだよ」

 こちらを見ずに何かを書きながらさらっと放たれる愛情はどこか嘘くさい。好きだと認識してから何度も告白しているが、毎回こんな風に流されている。

「世界で一番好きなのは?」

「ピジョットかなぁ」

「人間で、です!」

「悪い悪い。そうムキになんなって。お前が一番好きだよ」

 まるで小さな子どもをあやすかのようだ。

 グリーンにはレッドという幼馴染がいる。同い年で、昔からよく遊んだり競いあっていたりしたそうだ。グリーンがチャンピオンになって最初に戦った相手であり、その座を奪い去った相手でもある。だがある日、何も告げないままどこかへ消えてしまったのだとか。

 きっとこの人は、今でもその幼馴染を忘れられずにいる。

「お前、あいつに似てるよ。ほんの少しだけな」

 だからそんなことを云われても、誰に? とは聞けなかった。目を伏せて笑うグリーンを追い詰めてしまえば、腕からするりと抜けて居なくなってしまいそうで。

 どんな言葉を当てはめればいいかも解らない関係を壊せずに、ただ求められた分だけを返すことしかできない。



 月の綺麗な夜に、ふと会いたくなった。だからグリーンの家に向かった。そんな純粋で単純な行動が、自分を地獄に突き落とすことになるなんてヒビキは夢にも思わなかった。

 家の近くまで来ると、グリーンが玄関先で楽しそうに誰かと喋っているのが見える。相手は赤い帽子を被った、グリーンと同い年くらいのトレーナー。嫌な予感がした。

「レッド」

 風に運ばれたその言葉だけが、やけにはっきりと、耳に響く。

 帰ってきたんだ、あの人が。ヒビキがずっと代わりを務めていた人が。手が震えてきて、かじかんで、一緒に食べようと思っていた饅頭の袋を思わず落としてしまった。

 どさり、という音に二人がこちらに気づく。

 初めて見るレッドという男は、無表情で何だか恐ろしくて、自分が責められているような感覚に陥る。

「あ、ヒビキ──」

 声を掛けようとしたグリーンの言葉を聞きたくなくて、饅頭も拾わないまま全速力でその場から逃げた。

 僕は何をしているんだろう。

 逃げたって意味がない。問題を先送りにしているだけだ。心の底では解っている。でも「お前はもう要らない」という宣告を受ける覚悟がまだヒビキには無い。もちろんそんな突き放すような云い方はしないだろうけど、どんなに柔らかく何重にもオブラートに包まれたってその意味は同じだ。

 トキワの森を後少しで抜けるところで、少しだけ息を整える。木が生い茂る狭い空をふと見上げたが、月は見えなかった。何だか無性に見たくなった。

「ま、待てって!」

 背中から聞こえるグリーンの声に怖気づいたヒビキはまた走り、手持ちにいたヤミカラスに乗って空を飛んだ。心配そうにこちらを見上げるヤミカラスを安心させるように撫でたけど、その手の震えはまだ止まっていなかったから、逆効果だったかもしれない。

 お月見山の頂上。そこに着いた瞬間ヒビキは芝生に座り込んだ。雲がなくて澄んだ空にまあるい月が浮かんでいる。

 両足を伸ばして、はあ、と息を吐いてごろんと仰向けになった。

 どんなに逃げたところで、いつかは終わりを告げられる。ならせめて、残酷なその瞬間まで綺麗なものを眺めていたい。

 一瞬大きな突風に襲われて、腕で顔を覆う。誰かが近くに降り立つ音が聞こえて、もう何も見たくなくなった。早すぎる。まだ嫌だ。まだこのままでいたい。

「お前さぁ──足速すぎんだよ! 全力で逃げやがって」

 息を上がらせて抗議する声が全身に降りかかる。いつの間にか大好きになったその声を、今は聞きたくなかった。

 腕を掴まれて無理やり顔を暴かれる。ゆっくり目を開けると、逆さまになったグリーンが視界を覆っていた。

「グリーンさん──」

「情けねぇ顔」

 柔らかく微笑うグリーンの声は優しくて、ああ今から僕はゆっくりとこの人に殺されるんだ、と思った。

「俺さ、ずっとお前に嘘ついてたんだ」

 嘘。僕が好きだという、甘くて残酷な嘘。所詮はただの代用品。

 全てに諦めがついて、力が抜ける。

「レッドが何も云わずにどっか行っちまったって、嘘なんだ。本当はずっと連絡取り合っててさ」

「え──?」

 寂しさも恋しさも嘘だったなら、ヒビキの役割は何だったのか。もっと辛い真実が待ち受けている? それとも──

「お前って優しいから、大事なやつ失って傷ついてるような姿でも見せれば、放っておけないだろ?」

 グリーンは自嘲気味に笑う。

 確かにその通りで、ヒビキは放っておけなくて拒めなくて関係を持ってしまった。自分のせいで壊れてしまう罪悪感を味わいたくなかった。でもその内に本当に好きになってしまっていた。いや、きっと最初からほんの少しだけ恋心はあったんだと、今では思う。

 だがグリーンが何の為にそんな事をしたのか、期待しそうになった気持ちを慌てて消し去る。せめて傷は少しでも浅くしたい。

「──なんで、そんなこと、したんですか?」

「鈍いやつ。そんなの決まってるだろ? 好きだからだよ」

 涙が零れた。

 グリーンがそれを拭う。

「男同士だしさ。正攻法でいったって逃げられるだけだと思ったんだ。だから、まあ、これも賭けではあったんだけど。そんで上手くいったは良いものの、本当のこと話したら軽蔑されるかと思って、できなかった。──今まで騙してて、ごめんな」

 滲む視界に浮かぶグリーンは、何かに耐えるような表情をしていた。

 その表情の意味を、ヒビキはまだ理解できない。

 グリーンはヒビキの隣に座った。ヒビキが上半身を起こすと、ほら、と饅頭を差し出した。

「お月見といえば饅頭だろ? やるよ」

「それ、僕が買ってきた饅頭ですけど。それにお月見といえば団子です」

「細かいことは気にすんなって!」

 受け取って口に放り込んだ饅頭は、少ししょっぱくて、とても甘い。

 しばらく無言で互いに空を眺めた。

「で、どうする?」

「え?」

 思考が鈍ってきょとんとしていると、グリーンは呆れたようにため息を吐いた。

「だからさ、俺はお前の優しさにつけこんでずっと嘘吐いてたんだよ。お前はそれ聞いてどう思った? 今の関係をどうしたい? もう俺と関わりたくないっていうなら、それでも構わねぇけど」

「そんなの──」

 構わないと云いながら不安げにこちらを伺うグリーンに、ほんの一瞬だけ唇を合わせる。こんな月の綺麗な夜に恋人とキスなんて、ベタな恋愛映画のワンシーンみたいでいっそ滑稽だ。それでもヒビキは真剣だった。

「僕はとっくの昔からグリーンさんのこと好きですし、その気持ちは今も変わってません」

 まっすぐに見つめると、小さく口を開けて固まったグリーンが、ふはっと吹き出す。

「お前⋯⋯っ、似合わねぇな! 何だかこっちが恥ずかしくなってくるわ」

「えっ、ひ、ひどい! 僕は大真面目なのに!」

「ふっ、はは、いや、嬉しい。すっげぇ嬉しいよ。やっぱお前って優しいな」

「優しさじゃなくて、同情じゃなくて──ちゃんと僕は、好きなんです!」

「ああ──」

「俺も好きだよ」

 初めてヒビキはグリーンのその言葉を信じることができた。



「すんごく気に入らない」

 ヒビキが初めて聞いたレッドの声は、実に不満をたっぷり含んだものだった。

 お月見山でお互いに落ち着いた後、二人でグリーンの家へと戻った。リビングに入るとレッドはまるで実家のように寛いで煎餅をかじりながらテレビを眺めていた。グリーンの「少しは遠慮しろよ」とか「つーか察して帰ってくれよなんで居んだよ」とか全てスルーしてグリーンとヒビキへ交互に目を向けてようやく放ったのが「すんごく気に入らない」、だ。

「人をダシにしやがって」

「いや、たまたまだって! まさかあのタイミングでヒビキが来るとは俺も思ってなかったんだよ! 悪かったな!」

「君が鍵も掛けずに血相変えて走り出すから仕方なく家を守ってやっていた僕への感謝は?」

「ボリボリ煎餅かじって寛いでやがるくせにどの口が云うんだ。⋯⋯あーはいはい、どーもありがとーございました! これで満足か?」

「散々相談に乗ってやったのに」

「真面目にアドバイスしてくれたこと一度も無かったじゃねぇか! 正直毎回あっこいつ話聞いてねぇなって思ってたからな。つーかヒビキの前でその話すんじゃねぇ!!」

 云い合うレッドとグリーンに、正直ヒビキはどうしたらいいか解らなかった。ただ幼馴染ならではの遠慮のなさに、ほんの少しだけ嫉妬してしまう。レッドはむすっとした表情を隠そうともせずにヒビキに視線を向けてグリーンを指差した。

「云っとくけどこいつ凄く面倒くさいよ。覚悟した方がいい」

「お前っ、そういうのやめろよ! 俺の今までの努力を無駄にするんじゃねぇよ」

「事実だし」

「あ、僕! どんなグリーンさんでも愛せるんで、大丈夫です!」

 なんだか二人の間に割って入りたくなってそんな言葉が口をついて出てしまった。物凄く恥ずかしい事を云ってしまったと気がついたのは、二人が固まって部屋に静けさが満ちた頃だった。グリーンが赤くなっている。それに比例するようにヒビキの頬も紅潮していく。

「⋯⋯ごちそうさま」

 レッドは赤くなった二人を放置して家を出ていった。ごちそうさまの意味が煎餅を指している──わけはないだろう。居たたまれない気持ちになってきた。

「えっと、グリーンさん」

「お、おう」

「改めて、これからよろしくお願いします」

「え? あ、ああ! よろしくな」

 いつか二人みたいに、遠慮なく云い合えるような関係になりたい。今はまだ年上としての余裕を持っているグリーンの表情を崩せるようになりたい。

 そんなことを考えながら、ヒビキはその日、幸せな夜を過ごした。



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