side story - R
『予兆』
十八歳の夏。トキワの森にある小さな白い花畑。
そんな童話みたいな場所に二人で腰を下ろしていた。
ちら、と隣を見れば、グリーンはぼうっと空を眺めている。投げ出された足は太陽に照らされて、上半身は木漏れ日を浴びていて、その姿はどこかあどけない。
そんな穏やかな空気とは対照的に、僕は焦っていた。
そもそも今日ここにグリーンを連れ出したのは僕だ。明日から同棲を始めるものの、先人達が勝手に決めた理のせいで確かな誓いも立てられないことを知った僕は、ここで誰にも知られることのない誓いを立てようとしていた。
周りに広がるシロツメクサを手にとって、ナナミに教えて貰ったとおりに指輪を作る。ここまでは良かった。でももう一つ、必要なものが見つからない。
幸運の象徴、四つ葉のクローバーが見つからないのだ。
夏は四つ葉が増えると誰かに聞いたのに、ひとつも見つからない。何もせずにただ過ぎ去っていくこの時間を、グリーンはどう思っているだろう。
──仕方ない、四つ葉は諦めよう。
二人の未来を導いてくれる儀式はまだ残っている。そっちをメインってことにすればいい。
「グリーン。手、出して」
互いに誓い合ったときのグリーンの表情は、今でも脳裏に焼き付いている。
***
恋人岬の鐘を前にして、僕は目の前が暗くなるような思いだった。
鐘が割れたのだ。幸せを約束する四つ葉のクローバーは見つからず、永遠を約束する鐘は割れた。冷たい何かが心を濁していく。まるでこれからの未来に渦巻く暗雲を予兆しているかのようだ。
不安を誤魔化すことも、鐘から目を逸らすことも出来ずにただただ立ち尽くした。
「誰にも祝福されなくたって、お前への気持ちはこの先も変わんねぇよ。レッドもそうだろ?」
グリーンが笑う。
雲から太陽が現れて、視界が一気に明るくなる。光を浴びた海がキラキラと輝く。
その言葉はまるで清浄機のように淀んだ空気を振り払ってしまった。
きっとグリーンと一緒ならどんな困難も乗り越えられる。
君の笑顔を見るだけで、隣に立つだけで、これほど強気になれるから。
「もちろん」
<シロツメクサの花言葉:約束>
***
『裏切り者』
夏にグリーンと同棲を始めてから初めての冬。互いに新たな生活には慣れたけど、グリーンに小さな変化があった。
ふとした時、遠くを眺めるようにして、何かを思い出すかのように小さく笑う。僕はその表情をよく知っていた。だってずっと僕に向けられていたものだから。
不安になった。
その表情が向けられているのは、過去の僕でも未来の僕でも無い気がした。
頑張れば頑張った分だけ報われる。そう信じていた僕はより一層、君のために仕事に力を入れる。
それが間違いだとは思わなかった。
***
カーン、カーン、カーン⋯⋯
遠くまで響き渡る重くるしい音。
グリーンが知らない誰かと鐘を鳴らしている。楽しそうに笑い合っている。
あの夏の日、四つ葉が見つからなかったから。
鐘が割れてしまったから。
だからこの幸せな日々もいつかは壊れてしまう?
友情や恋情が愛情に変わった瞬間、こんなにも脆くなってしまうのか。
二人が去った後、僕は鐘を割った。
何度も何度も、絶対に修復できないように。
渡さない。
あいつの笑顔も優しさも、ふと見せる弱さも。
誰も約束してくれなかった二人の未来を、あんな少年なんかに──奪わせはしない。
***
朝。グリーンが見ていたつまらないニュースを消して、彼のために用意したハーブティを渡す。僕はどうしてもハーブの匂いが好きになれないから、普通のお茶だ。
グリーンが一口飲んだのを確認して、僕もお茶を啜る。身体がじんわりと温まっていく。
「最近、何だか楽しそうだね」
「そ、そうか?」
「新しい友人でも出来た?」
しん、と不自然な沈黙が一瞬だけ部屋に落ちる。
「──いや、相変わらず人は滅多に来ないし、ずっと独りだよ」
グリーンが嘘を吐いた。
僕に嘘を吐いた。
── 一生幸せにするから、幸せにしてくれよ。
いつからが嘘だ?
素直に告白してくれれば許すつもりだった。話し合ってまた元通りになれるはずだった。
隠そうとするのは、あの少年との関係を壊したくないから? 知られたくないから?
きっと僕が放っておいたせいだ。だからこいつは寂しさを埋めたくてこんな事をしているんだ。罪悪感に苛まれながらも、麻薬のように人肌を求めているんだ。
貯蓄は十分にあるし、暫くは仕事も休んで側にいよう。そうすればグリーンも僕と居るのが一番良いって思い出してくれる。
──誰にも祝福されなくたって、お前への気持ちはこの先も変わんねぇよ。
グリーンを裏切り者にはさせない。
僕が勘違いを正してやらなくちゃ。
カップに入れておいた睡眠薬に侵されたグリーンは僕の胸に倒れ込む。睡眠薬が役に立ってしまったことに哀しくなった。
いつも内ポケットに入れている、枯れたシロツメクサが入った小瓶をそっと握ってから、グリーンを寝室へ連れていき準備のために外へ出た。
<シロツメクサの花言葉:私を思って>
***
『君のため』
グリーンをケージに閉じ込めてから、僕は出来る限り側に居た。
だけどあの日から彼は一言も喋らなくなってしまった。
前はグリーンの方がよく喋っていたのに、今は僕の声ばかりが部屋に響く。
数日経って、冷静になって、この方法が最悪手だということは既に気付いていた。でも繋ぎ止めようとした末の行動のせいで、グリーンが僕を嫌ってあの少年の元に行ってしまう未来に怯えて、どうすることも出来なかった。
グリーンを外に出すことが、ただただ怖かった。
あの日の割れた鐘が、僕たちの関係を表しているようで不安になった。どんな行動や言葉が最善かも解らないまま、いつか奇跡が起こってこの状況から抜け出せるんじゃないかって甘えたまま、ひたすら僕は無言のグリーンに意味のない言葉を投げかける。
「たのもー!!」
ああ、まただ。この場に似つかわしくない声が玄関から響いてくる。僕よりも弱いくせに、何度も何度も僕からグリーンを奪おうとやってくる。まるで僕が悪者みたいに。自分は正義のヒーローのような顔をして。
***
「愛してる」
久しぶりにグリーンの声を聞いた。どうやらグリーン自らあいつを追い返してくれるらしい。耳元で囁かれた愛の言葉に泣きそうになった。良かった。グリーンもこの状況から抜け出して、また僕との幸せな日々を望んでくれているんだ──
そう思ったのに。
グリーンは僕を突き飛ばして、あろうことか偽善者である少年の手を取った。
「ゴールド!──俺を助けてくれ!」
助ける? 何から?
どうしてそいつに助けを求める?
君のプライドが許してくれるなら僕は、世界中が敵になったって君を護って見せるのに。
***
シロガネ山の、ほとんど頂上に近い、開けた場所。そこでピジョットに乗り換えたグリーン達の行く手を阻むように降り立った。
グリーンの後ろに隠れるように存在する少年に、腸が煮えくり返るような憎悪が湧き上がる。グリーンのために僕は犯罪者になるわけにはいかなかったから、バトルで片をつけてやっていたのに。視線で人が殺せたらどんなにいいだろう。
どうして? どうしてこんなに上手く行かない? 今までの人生いろんな事があったけど、上手く行かなかったことなんて無かったのに。
「──でも、お前おかしいよ。普通じゃない」
聞きたくない。そんな表情を僕に向けて放たれる言葉なんて。
そもそも普通ってなんだ。僕たちの関係は世間一般の"普通"と外れていたから、祝福や幸せを祈る言葉が第三者から貰えることはないから、正体の掴めない不安を抱えたまま、僕は何とか約束を形に残したくて、だから、だから、迷信なんて信じてなかったのに、それでも僕は──
「人が人をケージに入れて閉じ込めるのは、おかしいんだよ」
壊れていく。あの鐘みたいに。あの夏の日──いや、あの冬空の下の鐘みたいに。僕がこの手で粉々にしてしまう。もういっそ、どうしようもなく壊してしまえばいいのか。
僕の世界には君しかいない。
僕は独りじゃ不完全で、君がいないと──
「僕から逃げられると思ってんの?」
この場所を守り抜くためなら、どんなに残酷な人間にだってなってやる。
決意した僕が口を開きかけた所で、苦しげに目を伏せたグリーンは、ピジョットを飛ばして空へ舞い上がった。あの少年と共に。
行かないで
「待って、グ──」
その風圧に煽られたせいで。
追いかけようと足を踏み出したせいで。
捕まえようと手を伸ばしたせいで。
僕は。
崖から、落ちた。
「え──?」
内蔵が浮くような感覚。耳をつんざくような風の音。確定された死の運命。
グリーンとの関係が壊れたまま、散らばった破片をかき集めることも出来ないまま、物語はここで終わるのか。
君のために。
僕のために。
ただ──
幸せになりたかっただけなのに。
<シロツメクサの花言葉:幸福>
***
『再会』
ピ、ピ、と機械音が遠くに聞こえる。
──あの子ったら、こんな時にどこへ行ったのかしら。
聞き馴染みのある声がする。
──レッドくん。私の声が聞こえてるか、これが慰めになるのか、何もわからないけれど⋯⋯
──あなたのポケモンたちは、うちでちゃんと預かっているから、安心してちょうだいね。みんなとっても良い子にしているわ⋯⋯だから早く⋯⋯
この人がそう云うなら安心だ。
こんな愚かな主人を、彼らは恨むだろうか。呆れるだろうか。過ごした日々を後悔するだろうか。こんな僕の元にいるよりも、ナナミの元にいた方が幸せかもしれない。
みんな僕が居なくてもきっと上手くやっていける。それはこの八年間で築き上げてきた信頼だった。本来頭を下げてみんなのその後を頼むべきだけど、指一本動かせない。
世界で僕ほど親不孝でポケモン不孝な人間は居ないかもしれない。せめて哀しまずに、僕を憎んでくれたらいい。
果たして僕は今生きているのか、死んでいるのか。
僕がいなくなったらグリーンが寂しがってしまう。行かなきゃ。いや、違うか。もう、グリーンに僕は必要無いのか。どうしてこんな事になってしまったんだろう。
あの少年のせいだ。
あいつが全ての元凶だ。
グリーン以外の誰かに、こんなに大きな感情を持ったのは初めてだ。
あんなやつ、あんなやつなんか──しんでしまえばいい。
いつだってグリーンという存在が僕を強くした。あいつが居なかったらチャンピオンになることすら無かった。あいつもそれは同じのはずだ。チャンピオンロードの手前で緊張している背中も、リーグで迎え撃とうとする気迫も、今でも鮮明に思い出せる。
正反対の僕たちだけど、互いがいて一つになれる、半身だと思っていた。
いや、それは間違っていないはずだ。そうあるべきだ。
僕なら取り戻せるはずだ。
今まで一度だって、挫けたことなんて無いんだから。
障害物を消して、君と再会して、全部元通りだ。
愛しさと憎しみを抱えたまま、僕はこの世界から抜け出した。
<シロツメクサの花言葉:復讐>
***
『四十二日間の逢瀬』
気がつけば小さな墓場の前に立っていた。
身も心もとても軽い。
なんだか長い間ずっと大きくて昏い感情に囚われて苦しんでいた気がする。墓に置かれた誰かに向けられた花に触れようとしたが、できなかった。
それに対して僕はただ漠然と自分が死んだことを理解した。
「お前も誰か、大切なやつを失っちまったのか?」
後ろから愛しい声が聞こえてきた。すぐに振り向きたかったけど、どうにも頬が緩んでしまう。それに何故か動くのが少し億劫だった。
「うん──いや、奪われた、が正しいかな」
そうだ、記憶が朧気だけど、多分全部終わったんだ。
「でもいいんだ。復讐は終わったから。後は取り戻すだけ」
ようやく振り返れば、驚愕に目を見開くグリーンがいて、少し面白かった。
「やあ、グリーン。久しぶり」
***
昼間は上手く動けない。夜は自由な時間だ。でもそれは有限だと理解していた。どうすれば、これからもグリーンの側にいてあげれるだろう? ああ、簡単だ。グリーンも僕と同じになればいいんだ。
そう思ったタイミングで、グリーンがフスベの小屋に籠もってしまった。嫌な感じのする御札が貼られていて、すり抜けることは叶わなかった。
生者にとって死は恐ろしいものだ。だからグリーンは怖がって籠もってるに違いない。心配いらないのに。多分僕なら上手くやれる。
「居るんでしょ?──開けて?」
優しく声を掛ければ、中から小さく息を飲む音が聞こえた。自発的に出てもらうのは骨が折れそうだ。
小屋の周りを確認してみたが一分の隙もない。どうやら長期戦で説得をしなきゃいけないらしい。望むところだ。
この世で最後の勝負。
僕が勝つか、君が勝つか。
例えグリーンの心がどこにあろうとも、負ける訳にはいかない。
四十二日間の逢瀬も悪くない。
***
『見つからない花』
「待て、待ってくれ⋯⋯!」
月明かりの下で久しぶりに見る彼はとても綺麗だった。
グリーンがつまずきながらも小屋に逃げる。自ら袋小路に入るなんて、あいつらしくない。そんなに死(ぼく)が怖いんだろうか。
「ああ! くそ! 暗くて見えねぇ!!」
小さな棚を引き倒したり、布団をまくりあげたり、グリーンは何かを探すように部屋中を荒らし回っている。
まあ、僕にはもう関係のないことだ。早くしないと夜が明けてしまう。僕がこの世に留まれるのはあと数時間しかない。さっさと終わらせないと、お互い孤独になってしまう。
「どこだ!? どこだよ!!」
「大丈夫、痛くないから。一瞬で終わる」
安心させるように声を掛けながら、ゆっくりとグリーンに近づいていく。
壁にぴたりと背中をつけたグリーンは、わざとなんじゃないかってくらい、大げさに震えた。
「違う、違う、レッド──あ」
視界が赤く染まる。
グリーンが何を云いかけたのかは分からなかった。
鳴り止むことのない鐘の音が、どこか遠くからずっと聞こえている。
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