四十二日間の逢瀬

「レッドは七日前に亡くなっているね」


俺はワタル立ち会いのもと、元四天王の一人であるキクコと向き合っていた。あの後すぐにワタルの元へ行きレッドの話をすると、到底信じられない、と疑いながらもキクコを紹介してくれた。なんでもその道のプロ、だそうだ。キクコは電話で概要を聞いた後、その日のうちに時間を作ってくれた。


暗い部屋の真ん中にある一本のロウソクだけが三人を照らす。真っ暗な隅の方でゴーストタイプのポケモンがいたずらに音を鳴らす度に、びくりと反応してしまいそうになる。


「七日前? もっと前のはずだ、だって──」


レッドが崖から落ちたのは二週間前のことだった。そう云おうと口を開いたところを、俺の後ろに座っていたワタルが遮った。


「すまない。実はレッド君は崖から落ちたあとまだ生きていたんだ。入院していたんだが、容態が良くなることはなく、そのまま⋯⋯。君は到底話せる状態じゃなかったし、話せば余計に気負ってしまうかと思って黙っていた。本当に、すまない」

「そう、だったのか」


ワタルを責められるはずもない。暫く目を瞑って黙り込んでいたキクコは、ゆっくりと目を開いて、にい、と不気味に笑った。


「ゴールドを殺したのはレッドだね。執念深い。アタシは嫌いじゃないよ。でも、それだけじゃ飽き足らずお前さんも連れて行こうとしてるみたいだねぇ」


レッドが、ゴールドを──? あいつが、あいつがゴールドを、殺したのか。どうして。殺すなら、俺だけを殺せば良かったじゃないか!


「どうすれば、良い?」


俺は死ぬわけにはいかない。生きることが、俺のせいで死んだゴールドの最期の望みだったから。きっとそれだけが、俺ができる唯一の償いだろうから。レッドの思い通りにさせるものか。


「これから四十二日間、御札を貼った家に籠もってやり過ごせば命は助かるよ。人がこの世とあの世を彷徨えるのは四十九日だからね。どれ、お前さんの身体にも護符を書いてやろう」


さらさらと筆で俺の腕に何かを書いていく。ワタルは俺の肩を叩いて立ち上がった。


「俺はあまり霊などは信じないんだが──キクコの云う通りにした方が良いだろう。フスベに使われていない小屋がある。そこを貸そう。食事は一族の者に毎日運ばせる。いいね?」

「ああ⋯⋯。すまねぇ、ありがとう」


それと──と、逡巡するようにワタルは口を開いた。


「君の──ポケモンたちはどうする?」

「マサキのとこに預ける」

「それでいいのかい」

「ああ⋯⋯こんな事に巻き込みたくないしな」

「いや、ポケモンと居なくていいのか、ということもあるが⋯⋯ご家族には」

「姉ちゃんとじいさんには、全部終わったら俺から話すよ。だから、ワタルからは何も云わないでくれ」


ワタルは少し何か云いたげだったが、「君がそう云うなら」とため息一つ零してそれ以上問うことはなかった。


護符を書き終えたキクコは、俺の腕をぱんっと叩く。

「いいかい。日が暮れてから日が昇るまでの間は、全ての戸と窓を閉めるんだよ。死にたくないならね」

キクコの目は真剣だった。



四十二日。長いんだか短いんだか解らないが。

恐らく地獄のような日々になることだろう。



そんな予感がした。




***


小屋のあちこちに御札を貼り終え全ての扉と窓を閉めた。カーテンもぴっちりと閉める。そして最初の夜を迎えた。


変に気にして体力や精神を消耗するのもよろしくない。少し早いが寝るとするか。そう思い、外したペンダントをその辺に置き布団に潜り込んだところで、外から足音が近づく音がした。その足音は扉の前で止まった。


ガタガタガタガタ。


扉を開けようとする音がする。俺は無意識のうちに毛布をぎゅっと握った。


「居るんでしょ?──開けて?」


静かに語りかけてくるそれは確かにレッドの声だった。まさか、本当に──俺を殺しにきたのか。息を潜めてやり過ごす。


「この扉が開かないんだ。会いたい。グリーン、開けて」

「⋯⋯⋯⋯」


暫くして扉の揺れは収まり、小屋の周りをゆっくりと歩くような音が聞こえてきた。


ざっざっざっ──ガタガタガタガタ。


──チッ、ここもか⋯⋯。


らしくない乱暴な呟きが聞こえる。背中に厭な汗が滲む。小屋の窓が順番に揺れていく。


ざっざっざっ──ガタガタガタガタ。

ざっざっざっ──ガタガタガタガタ。


──ああもう、鬱陶しいな⋯⋯。


足音はまた扉の前にやってくる。

「また来るね」


それから朝まで、俺は一睡も出来なかった。




***


窓から光が差して、朝が来たことを知る。酷く疲れた。これがあと四十一回続くのか⋯⋯。


フスベの人が持ってきてくれた朝食を頬張りながら、俺はノートに二本の線を引いた。朝が来る度にここに正の字を書いていくことにしたのだ。四十三本目の線を引いた朝には、全てから開放されていることだろう。


──気が重い。




***


それから毎晩毎晩、俺はレッドに怯えるはめになった。


「少し話がしたいだけなんだ」

「君を恨んでなんかいないよ」

「酷いことなんてしないから」

「お願いだからここを開けて」

「君は約束を守る人間だろう」

「何をそんなに怯えてるの?」



一週間も経った頃には恐怖を通り越して段々と腹が立ってきた。


どうして俺がこんな目に遭わなきゃいけないんだ? はっきりと浮気をしたわけでもないのに。そもそも、浮気だと思ったなら怒ってくれればよかったんだ。責めてくれれば俺だって、事情を話した上で謝って、また元通りになれたはずだ。少なくとも、ゴールドは殺さなくたってよかったじゃないか!


ガタガタと、扉を無理やりこじ開けようとする音がする。俺はたまらなくなって叫んだ。


「しつっこいんだよ!! いい加減にしろよ! 俺ばっかりが悪いわけじゃないだろ!? 俺の話なんてちっとも聞いてくれなかったくせに! お前が、お前が俺のこと人間として見てないみたいな、そんなことするから、だから俺は⋯⋯!」


「えっ⋯⋯急にどうしちゃったんだよ。大丈夫?」


扉の向こうから聞こえてきたのはレッドの声ではなく──

「へ? ご、ゴールド⋯⋯?」

「久しぶりー! いやぁ、人ってすぐにあの世に行くってわけじゃないんだな。あ、墓参りサンキュー! てかここ開けてくんない?」


死んだ者は四十九日の間、あの世とこの世を彷徨う。キクコはそう云っていた。ゴールドが現れたってなんら不思議ではない。


ゴールド。

会いたかった。謝りたかった。こんな俺を笑い飛ばしてほしかった。目頭が熱くなる。


「ちょっと待て、今──」

扉に手を掛けようとしたところで、ふと手首から覗いた護符が目に入る。



──いいかい。日が暮れてから日が昇るまでの間は、全ての戸と窓を閉めるんだよ。死にたくないならね。



「あ、だ、駄目だ。開けられない。⋯⋯ごめん」

「えーっ? 何だよそれ。冷たくない? ──あのさ、本当に、ちょっとだけでいいんだよ。オレ多分もうすぐ居なくなるから、最期にひと目だけ⋯⋯良いだろ?」

「駄目なんだ。開けたら、レッドが──」

「レッド? 大丈夫、今はオレだけだよ。──ね? 開けろって。それとも一緒に鐘を鳴らしてくれたのは嘘だったのかよ」


俺は部屋の隅まで後ずさり、蹲って目を瞑った。ああ、こいつは。こいつはゴールドじゃない。──レッドは勘違いをしている。

暫くまだ何か訴えるように喋っていたが、俺がずっと黙っていると静かになった。




「⋯⋯⋯⋯⋯⋯」




***


それからはレッドだったりゴールドだったり祖父だったり姉だったりと、いろんな声が外から聞こえてきた。


「あんたのせいでオレは死んだのに、お願い一つ聞いてくれないわけ?」

──それは俺を責めるものだったり。


「貴方が心配でいてもたってもいられなくて⋯⋯。お願いグリーン。顔を見せてちょうだい」

──優しく労るような声だったり。


全てを遮断するように、毛布を頭から被って身体を縮こまらせた。




***


もしかしてレッドは本当は生きているんじゃないだろうか。何らかの伝達ミスで死んだと思われていただけなんじゃ? だってこんなにはっきりとレッドの声が聞こえる。家の周りを歩く足の音も聞こえる。そうだ、レッドは生きてるんだ。じゃあこんなこと無意味だ。怖がる必要なんてどこにもないんだ。


謝って、仲直り。

それで終わりだ。


俺はふらふらと出口である扉に近づき、真ん中の御札を、一枚だけ──剥がしてみた。


「⋯⋯っ」


バッと、その瞬間目の前に手が現れた。閉ざされている扉の真ん中から一本の青白い腕が伸びている。境界がどこか曖昧だ。その手は探るように俺の首に触れて、耳まで撫で上げて、唇をゆっくりなぞった。触れられた場所にぞわりと鳥肌が立つ。


「ぁ⋯⋯れっ、ど」

「良い子だね。でも一枚だけじゃ君の顔も見れない。全部剥がしてくれないと」


果たして生きてる人間は、扉を傷つけることなく向こう側に手を伸ばせるだろうか?


瞬きと共に零れた涙を拭って、後ろの壁まで下がって座り込んだ。扉から出ている腕は暫く無理矢理にでも奥へ入ろうとしていたが、やがて諦めて引っ込んでいった。俺はカーテンが明るくなってからようやく身体を動かし、御札を貼り直した。




***


愛しさと憎しみが共存できるなんて知らなかった。


レッドのことは今でも好きだ。レッドが望むなら一緒に死んでもいいってくらいには。俺の世界にあいつの存在は大きすぎて、簡単に嫌いになれるほど過ごした日々は軽くなくて。


でも、ゴールドを殺したという事実が心を憎しみに染めていく。


嫉妬なのかもしれない。

レッドが俺以外に感情を向けることなんてなかったから。


俺はゴールドのことをどう思っていたんだろう。あの少年に何を求めていたんだろう。退屈な日々に刺激をくれて、落ち込んでる時は不器用な慰めをくれて。良い友人になれたはずだ。


俺の世界はあまりに狭すぎて、友情と愛情の境目が解らなかった。


「何を躊躇してんの? 結局あんたは誰が好きなわけ? オレを選んだんじゃないの?」


違うんだ。勘違いなんだ。ゴールドは俺の──レッド以外で初めてできた友人なんだ。それだけだったんだよ、レッド。



だから、俺はお前を許せない。




***


三十日ほど経った夜。


「ねえグリーン、僕たちって決して仲良しな友達ってわけじゃなかったけど、昔からお互いが特別だったよね。僕は小さい頃から君に恋慕を抱いていたから、君が同じ気持ちになってくれて本当に嬉しかったんだ。目立つことは好きじゃなかったけど、君のためと思えば頑張れた。例え君が僕以外に目を向けたとしてもこの気持ちは変わらない。君がいないと駄目なんだ。だから──ここを開けて。孤独の苦しみは、君も知ってるだろ」


縋るようなレッドの声に、心が揺らぎかける。でもこいつは、弱々しく見せているこいつは、ゴールドを殺した。そして俺はゴールドに生きるように頼まれた。それに俺は、レッドと築き上げてきた愛情だったり絆だったりを、こんなドロドロして汚い何かに変えたくない。どうせ失うならせめて想い出だけでも綺麗なままにしておきたい。だから。



「⋯⋯俺は、死なない」

「僕を殺したのに?」



俺が殺した?




***



鐘の音がずっと部屋に響いている。



***



俺が殺した。 俺が、おれが、ころした。だれを。

二人が死んだのは、誰のせい?



***


違う。


「グリーン」

俺のせいじゃない。俺のせいじゃない。俺のせいじゃない。

「ごめ、んなさ⋯⋯」

「辛そうだね。ここを開ければ楽になれるよ」

俺のせいじゃない。俺のせいじゃない。俺のせいじゃない。

「ご、め⋯⋯んな⋯⋯さい。ごめん⋯⋯なさ」

「大丈夫。僕は君の味方だ。開けて」

俺のせいじゃない。俺のせいじゃない。俺のせいじゃない。


ポケモン達の主人を失わせたのも──

人の母親を悲しませたのも──

ゴールドが死んだのも──

レッドが死んだのも──

今のこの状況も──

俺のせいじゃ──



おまえのせいだ



耳元で誰かが囁いた。

誰の声かは判らなかった。



腕に書かれた護符はほとんど消えかかっている。




***


全部夢だったらいいのに。


──グリーン

──グリーン

──グリーン


本当はまだトキワの森で。あの夏から抜け出していなくて。


──開けて

──開けて

──開けて


今見ているこれは全て逆夢で。鐘は綺麗に三回鳴って。お互いの時間が何より楽しくて。友人のゴールドをレッドに紹介して。みんなでバトルして。


──開けて

──開けて

──開けて

──開けて

──開けろ


あるはずのない隙間から、レッドの目が覗いている気がした。

ああもう厭だ。こんな狂ったレッドなんて。もういやだ。何もかも。



──鐘が落ちたあの日から、全てが嘘だったらいいのに。




***


朝が来てノートに線を引く。かなり歪な線になってしまった。ここ最近ずっと吐き気と目眩が止まらなくてペンを持つことすら怪しい。


あと何日耐えればこの日々が終わるんだ⋯⋯そう思ってノートを見直したところで俺ははたと気付いた。


──ん?


何度も何度も正の字を数え直す。

そこには八つの正の字と、二本の線があった。


今は四十二日目の朝だ。つまり?

今夜を耐え抜けば、全てが終わる。


ドクドクと心臓の鼓動が加速する。


「はは、は⋯⋯ははは! 勝った!! 俺の勝ちだ!! レッド!! 散々苦しませやがって⋯⋯! お前なんか、お前なんか──」


零れる涙はきっと安堵からだ。明日が来れば俺はこの辛い日々から解放される。レッドはこの世から消える。もう二度と会うことはない。


「お前⋯⋯っ、なんか⋯⋯!」


だからこの止まらない涙は歓びからに違いない。どうしようもなく締め付けられる胸の痛みも、きっと。



「おまえなんか、だいっきらいだっ!!」



ガタガタと、冷たい風が扉を揺らす。




最終話 - 見つからない花

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