再会
木の匂いがする。
トキワの森の匂いじゃなくて、古めかしい日本奥屋のようなこもった匂いだ。ゆっくり目を開くと、霞む視界に誰かがいた。目が覚めて最初に俺の傍にいる奴なんて決まってる。
レッド。
あまりに厭な夢だったから、何だか無性に恋しくなって、手を伸ばして頭を掴み引き寄せた。顔にかかった髪の毛に違和感を感じながらも、触れるためにさらに引き寄せようとすると──
「ちょ、ちょっと! 何してんだよ!」
大声に一気に覚醒する。目の前にいたのはゴールドだった。物凄く慌てた表情だ。ああ、あれは夢じゃなかった。全部現実だ。レッドにはもう二度と会えないんだ。
「⋯⋯ごめん」
「寝ぼけて昔の彼女とでも間違えた?」
「彼女──?」
いつもならニヤけて聞いてきそうな内容だが、ゴールドの表情は柔らかかった。──いや待て。彼女って、なんだ。
「いたんじゃないの? 前に恋人用の鐘の前で物思いに耽ってたからさ、てっきり昔の彼女でも思い出してるのかと思ったんだけど。そういや聞くの忘れてた、あんたのこと閉じ込めてたあの男って何者? 何で閉じ込められてたの?」
「⋯⋯もしかしてお前、何も知らなかったのか?」
俺はレッドとの関係を一通り話した。
「はぁ? 幼馴染ぃ? 恋人ぉ? 夫婦ぅ!? え、なに、まさかオレって二人の仲を引き裂いた悪者だったりする? オレのせいであんた閉じ込められてたの⋯⋯?」
驚いたことにゴールドは本当に何も知らなかった。理由は解らないが俺が監禁されていると気付いて友を救うべく助けに来てくれたらしい。
「お前のせいじゃねぇけど⋯⋯まあ、一緒に鐘鳴らしたあれがキッカケではあるな」
「うわぁ⋯⋯うわー!! だってオレあんた独り身だと思って──! 男と暮らしてんのは知ってたけどルームメイトって思うじゃん! じゃあオレがやったことって本当に──今のこの状況全部──」
「その、あんま気負いするなよ。本当に、お前のせいじゃないから」
ゴールドはただ捻くれた世話焼きで友人思いの男だっただけだ。悪いのは全部俺だ。ゴールドに惹かれてレッドの心を裏切った上に、一番最低な方法でそれを知られてしまった。
「ところで此処ってどこなんだ?」
「え? ああ、ワタルさんの実家。事情説明したら暫く泊めてくれるって。全部やっておくから何も心配しなくていいってさ。できた大人だよなー」
そうか。ワタルが。ワタルは確かに正義感のある男だが、ここまでしてくれるのはゴールドのことを気に入っているからだろう。
「ま、暫くはお言葉に甘えてここで大人しくしてようかと思ってね。どっか行く気になんてなれないだろ? あんたもさ⋯⋯」
どこかへ行くどころか、俺は──
***
それからワタルの実家に居候していたが、俺は外に出る気も起きなくてひたすら部屋に閉じこもっていた。ワタルも、家の人達も何も云わなかった。出される料理もなかなか喉を通らない。ワタルにあいつのことを聞き出す勇気もまだ、ない。
だが俺よりももっと重症なやつが居た。ゴールドだ。ゴールドは居候を始めてすぐに体調を崩した。原因不明で医者はストレスだろうと説明していたが、本人は否定している。
酷い咳をしていたので、実家に帰ったほうが良いんじゃないかと提案したが、ゴールドは笑いながら「何云ってんだよ。乗りかかった船なんだから、最後まで付き合う。少なくともあんたがまた笑うまではね!」と答えた。
***
ワタルの実家にお世話になって今日で五日目だが、ゴールドはとうとう立ち上がることもできなくなった。熱が高くて苦しそうだ。俺はただただ毎日無心でゴールドを看病しているが、良くなる気配はない。ゴールドの手持ちのポケモンはみんなボールから出て心配そうに見守っている。
氷が溶けてしまった枕を替えようとしていると、ゴールドが俺の腕を引っ張った。
「あのさ、オレのポケモン、ワカバタウンにいるウツギ博士のところに預けてくんない?」
弱々しく笑う姿に厭な予感がした。
「は? なに、云ってんだよ。一緒に居てやればいいじゃないか!」
「オレが死んだらだよ」
「死なねぇよ! このくらいで──」
「まあ、いいけど。確かに伝えたからね」
ゴールドは俺の腕を離して満足そうな顔で眠ってしまった。死なせない。死なせるもんか。
***
七日目の夜、俺の決意も虚しくゴールドは高熱を出したままで、もはや笑う余裕すらないようだった。俺が水を飲ませたあと、ゴールドは荒い息を吐いて、天井を見つめながら掠れた声を上げる。
「あんた、は⋯⋯ちゃんと、生きてよ。いつまでも⋯⋯そんな顔、してないでさ⋯⋯」
「な、なにいってんだよ。お前が俺を笑顔にしてくれるんだろ? やめろよ⋯⋯俺を置いていかないでくれ⋯⋯」
「おれ、さ。次の、人生では⋯⋯、かわいい⋯⋯幼馴染、とか⋯⋯ほしいなぁ。マリルとか、連れてて⋯⋯旅の⋯⋯途中でさ。励まし、あったり、とか⋯⋯して⋯⋯」
とぎれとぎれに巫山戯たことを云うゴールドにたまらなくなった。
「ばか⋯⋯! 無駄に体力使うんじゃねぇよ。別に幼馴染じゃなくたって、可愛い彼女でも作ればいいだろ? まだまだ人生長いんだから⋯⋯!」
「あ⋯⋯ちょっと、笑った? 気の、せいか⋯⋯。おれの⋯⋯ぶんまで、ちゃんと⋯⋯」
ゴールドはそれきり何も喋らなくなった。浅くなっていく呼吸に、俺は静かに絶望していった。
***
ゴールドが目を開けると、そこは薄暗い洞窟だった。
厭な寒さに身体が震えてくる。目の前にはいつの間にか赤い髪の少年が立っていた。
──いいかゴールド。いつかお前を倒して、俺の強さを教えてやるからな。
視界が急に暗くなったかと思えば、今度は高原に立っていた。照りつく太陽が身を焼こうとするようだ。目の前には赤い髪の少年が立っている。
──今からポケモンリーグに挑戦か? そいつは無理だぜ。育てに育てまくった俺のポケモンがお前を倒すからな。⋯⋯ゴールド! 俺と勝負しろ!
暑い。熱い。何で今更こんな夢、見てるんだろう。ああでも、もう一度、こいつとバトルがしたいと思っていたんだ。これは自分を哀れんだ神様からの贈り物だろうか。
──まだ勝てないのか⋯⋯。もっと、もっとポケモンのこと考えてやる必要がある⋯⋯そういうことか。フン、せいぜい頑張るがいいさ。
ああ。やっぱりもっと生きたかったなぁ。本当に強くなったシルバーと戦ってみたかった。オレが死んだらあいつでも悲しんだりすんのかな。はは、全然想像つかないや⋯⋯。こうなる前に一度くらい会いに行っときゃ良かった。
暑い。息が苦しい。刻一刻と死が近づいてくるのを感じる。太陽は消えて、今度は一気に寒くなった。
世界が黒に染まっていく。建物とか、人間とかの残影を少しだけ残して。まるでゲームの電源が落ちるかのように。
目を覚ますと、歪む視界には、真っ直ぐな憎しみの目を向ける、赤い、獣が──
***
俺は人生初めてワカバタウンに足を踏み入れていた。それも最悪な理由で。
ゴールドの墓は実家の近くに建てられた。俺はゴールドの望み通り、ゴールドのポケモンを全てウツギ博士の元へ預けた。全てを察しているだろうポケモン達はとても大人しかった。
ウツギ博士は優しい表情で、
「この子達はちゃんと僕が面倒を見ると約束するよ。ゴールド君の頼みだからね。⋯⋯君も辛かっただろう。少し、休んだほうがいい」
そう云って背中を撫でるものだから、涙が零れそうになった。泣く資格なんてないのに。
そして次にゴールドの母親に会った。玄関で黙り込む母親に、俺は何度も謝った。それ以外に出来ることなんてなくて、ただただ謝った。
「感冒を──こじらせたのだと、聞きました」
母親は俯いたままぽつりと呟く。
「あの子が、ここへ帰ることを望まなかったことも。私はどうして、何をしてでもあの子の傍に行かなかったのかしら⋯⋯。貴方のせいじゃない。貴方のせいじゃないわ。でも──ごめんなさい。今は何も考えたくないの」
本来責められて当然の筈なのに、彼女は俺を責めないように気を遣いながら、お墓参りはありがたいけど家には暫く来ないで欲しいと、震える声でそう云って扉を閉めた。
ワタルは「君だけの責任じゃない」と云った。「任せろと云ったのにチャンピオンの業務を優先してしまって、何もしてやれなかった」と。
違う。俺が、あいつを巻き込んだんだ。全部俺の責任だ。ゴールドは俺を気遣って助けようとしてくれたのに、俺は自分のことで精一杯で、何も返せなかった。
死にたい。
死んだら許されるなんて高慢な考えだと解ってはいても、それ以外に償いなんて思い浮かばなかった。でも死に際のゴールドが生きろと云ったから。辛くても俺は生き続けなきゃいけない。ゴールドも、レッドもいない、この世界で。
それから毎日俺はゴールドの墓に通った。母親に会わないようかなり早朝にワカバタウンへ向かい、花を手向ける。あいつは花なんて興味ないだろうけど。
三日目からは、誰かが俺よりも先に花を置いていた。店で売っているようなものではなく、道端にひっそりと咲くような野花だ。どんどん増えていく花に、あいつはどんなリアクションをするだろう。まあ、枯れた花は回収するから、花で一杯になることはないだろうが。
五日目の朝、花を手向ける少年がいた。燃えるような赤い髪をしていた。声を掛けようかとも思ったが、その背中は全てを拒絶しているようで、やめた。ゴールドの友人だろうか。あいつは想像以上に友人が多かったらしく、最近は花やお菓子だらけになっている。
赤い髪の少年が去ったのを確認してから、俺は今日も花を手向ける。
七日目の朝。
先客がいた。先日の少年ではない。俺と同い年くらいの男だ。全身黒い服に身を包んでいる。墓の近くに立っているが、そこにはゴールドの墓以外も並んでいるので、誰に会いに来たのかは解らない。
春の淡い日差しに照らされた、人の優しさと哀しみに溢れた空間に立つその男は、何だか異物だった。
「お前も誰か、大切なやつを失っちまったのか?」
何となく、声を掛ける。男は背中を向けたままだ。
「うん──いや、奪われた、が正しいかな」
奪われた? 誰かに殺されてしまったんだろうか。あまり深入りしていいものでは無さそうだ。
「でもいいんだ。復讐は終わったから。後は取り戻すだけ」
ようやく振り向いた男の顔に、目を見開いた。
「やあ、グリーン。久しぶり」
俺は全速力でその場から逃げ出した。
どうして。どうして。どうして。
どうしてあいつが。
──レッドがここにいるんだ?
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