君のため
目が覚めると、クッションの敷き詰められた大きいケージの中だった。ゆっくり起き上がる俺の動作を外からレッドがじっと見ている。
「おはよう」
今朝と変わらない笑顔だった。それがひたすらに恐ろしかった。
「レッド、なんで、こんな──」
「君が一緒に鐘を鳴らしてた男って、誰?」
「え──」
見られていた? どこから? そもそも昨日、レッドはセキエイにいたはずなのに。もしかして、早めに仕事が終わって戻ってきていたのか──?
「あれは、違う。違うんだ、その」
「鐘の意味を君は知ってるよね。忘れたなんて云わせない」
「忘れてないけど、あれは、悪巫山戯というか──」
だらだらと全身に冷や汗が流れていく。どうすれば、何て云えば。
「綺麗に三回鳴らしておいて悪巫山戯?」
「お、俺は、三回鳴らすつもりじゃなくて、ノリというか、友情を結ぶくらいの軽い気持ちで」
「さっき友人はいないって云ったよね?」
「あ──」
駄目だ。どう説明したって浮気を隠そうとする愚かな男の言葉にしかならない。そもそも本当に浮気じゃないと云い切れるのか? ゴールドに対してほんの少しでも気が無かったと云えるのか? ただの友人と思っていたなら、疚しい気持ちが無かったならレッドに隠そうとしなかったんじゃないか?
何も云えなくなった。
レッドの目を見てられなくなって、視線を下に落とす。手のひらに掻いた汗を誤魔化すように、クッションを握った。
「ああ、怖がらせてごめん。別に怒ってるわけじゃないよ。素直に誰なのか教えてくれればいいんだ」
「れ、レッド──」
「僕が放っておいたから、寂しくなっちゃったんだよね? 大丈夫、これくらいでグリーンを嫌いになったりしない」
なら、このケージはなんだ?
身体は多少動かせるが、立ち上がることは出来ないくらいの大きさ。柔らかいポケモンの形をしたクッションが敷き詰められているから痛くはないが、自分が人間として生きることを否定された気分になる。
何にせよ、レッドはちゃんと話を聞こうとはしてくれているらしい。
「レッド、ごめん、ちゃんと話すから、ここから出してくれよ」
「なんで?」
「なんでって──」
「だって君、本当は僕だけが好きなのに孤独に耐えかねて思わず他に手を出しちゃったんでしょ? 今は後悔して罪悪感でいっぱいでしょ? 僕は君にもうそんな思いをさせたくない。でも流石に常に一緒には居てあげられないからさ」
だから──レッドはガシャン、と人間が通るには小さい扉を開けた。震えの止まらない俺の腕をぐい、と掴む。そして指を絡めるように手を握った。
「君が君の望まない事をしないように、ここに閉じ込めて見張ってあげる」
優しい瞳だった。本当に俺のためを想っているかのような。
「でさ、結局誰? 鐘を鳴らしたの」
レッドの声は穏やかで、絡めた手も優しいのに、まるで死刑執行を待つ囚人のような気分だ。
「どうして黙ってるの? あ、どうでも良くてもう忘れた?」
「⋯⋯⋯⋯」
俯く俺が何も話さないことを察したのか、レッドは手を離して扉を閉める。そのまま黙って部屋を出ていった。
***
「グリーン、お昼にしよう」
ケージの扉を開けて、レッドは料理が盛られた皿を差し入れた。今日はスパゲッティだ。赤くてドロドロしたものが掛かったそれは、まるで今のこいつみたいだ。夫婦から主人とペットのような関係に落ちて何日経ったんだろう。隙を見てケージを壊して逃げたくても、部屋に置かれた監視カメラがそれを許さない。
何もすることがなく、狭い檻の中に閉じ込められて後悔と共に過ごす日々は地獄のようだった。
「同じ様に作ってるつもりなんだけど、グリーンが作る味にならないんだよね」
「⋯⋯⋯⋯」
前は俺の方がよく喋っていたけど、今はレッドの声ばかりが部屋に響く。
「ねえ、グリーン」
黙ったままの俺を気にも留めずにレッドがまた話しかけようとした所で「たのもー!!」と、この場に似合わない声が外から聞こえてきた。
思わず吹き出しそうになったが、先日それで酷い目に遭ったので黙って気にしない振りをする。
「⋯⋯またか。よく飽きないな」
レッドは軽く舌打ちをしてから、「ちょっと待ってて」と俺に優しく声を掛けて玄関へと向かった。
声の主はゴールドだ。どこからどう情報を得たのか、「グリーンを解放しろ」と、まるで人質を取って立てこもる犯人と対峙するかのように一週間ほど前からバトルを挑み続けている。
暫くしてレッドが戻ってきた。ゴールドはまた負けたらしい。俺のために、俺を除け者にして、毎日バトルを繰り広げる二人に嫉妬してしまいそうだ。
次の日。
「グラタン作ってみた」
お昼時にレッドが現れて持ってきたのはオーソドックスなグラタンだった。具材はいびつだが味は悪くない。もちろん褒めてなんかやらないけど。
食べ終わった頃にまた、ピンポーン、というインターホンと共に「たのもー!!」と声が聞こえてきた。明らかにレッドが苛立つのが解る。
「しつこいなぁ」
「──そうだな」
久々に俺は声を発した。掠れた声だった。レッドは目を丸くしている。
「俺たちの時間を邪魔するなんて、本当に鬱陶しいヤツだよな」
「グリーン?」
「あいつ、俺が無理やり閉じ込められてるって勘違いしてんだろ? 俺がはっきり云ってやるよ。もう来んなって。そしたらさすがに諦めるだろ」
「そう、だね」
前みたいに甘い笑顔を向けると、レッドは嬉しそうに目を細める。ケージの天井が開かれたので、痛む膝に耐えながら俺は立ち上がりレッドの首に手を回して抱きしめた。レッドが動揺して息を飲むのが解る。
「愛してる」
ごめんな。
レッドの手を握って玄関の扉を開くと、ゴールドが心底驚いたという顔で立っていた。懐かしさに泣きそうになった。
俺はレッドの手を振り払って思い切り部屋の中に突き飛ばした。驚愕に目を開くレッドと一瞬だけ視線が重なる。それに気づかなかった振りをして、ゴールドに向き直り手を取った。終わらせなくちゃいけない。こんなことは。
「ゴールド!──俺を助けてくれ!」
はっと正気を取り戻したゴールドは、いつもの余裕を含んだ表情を浮かべて「そのために来たんだろ!」と笑った。
***
ゴールドのエアームドに乗って空へ舞い上がる。押し付けられたマフラーを肩と首に巻いたものの、上着が無い状態の冬空はかなり堪える。とはいえ春が近いのか、まだ耐えられるレベルだった。
結構なスピードを出しているため、俺は目の前のゴールドの背中にしがみつきながら後ろを振り返り──絶望した。
「お、おい!! ゴールド! もっと早く飛べないか!?」
「限界までやってる!! 後ろから追っかけられてんのも気付いてる!」
後ろからレッドがリザードンに乗って追いかけてきていた。距離も遠く片手で帽子を抑えているため表情はよく解らないが、漏れ出る殺気はここまで伝わってきた。確実に怒っている。当然だ。
あのままずっとケージの中にいたって事態が良くなるとは思えないが、この行動は二人の間に致命的な溝を作ったことだろう。後悔したってもう遅い。
「まずい!」
突然ゴールドが切羽詰まった声を出した。
「どうした!?」
「道を間違えた!」
「何だって!?」
「あんなのに追っかけられて冷静でいられる方がおかしいって! 何とかシロガネ山で立て直す!」
そう云って山をぐんぐん登っていく。早さなら俺のピジョットの方が上だ。山のどこかで一旦降りて交代しようと提案すると、ゴールドは顔を強張らせたまま頷いた。
高度が上がっていくにつれて吹雪いてきた。ほとんど頂上に近い、開けた場所に一旦降りてゴールドはエアームドをボールに戻す。俺は素早くピジョットを出しゴールドを後ろに乗せ、ジョウト地方の方面へ飛び立とうとしたが──
それを阻むようにリザードンが行く手を塞ぎ、レッドが降り立った。
後ろで小さく息を飲み込む音が聞こえた。
「どうして?」
帽子を深く被って俯くレッドが今どんな表情をしているのか、俺には解らなかった。
「レッド、ごめん。でも、お前おかしいよ。普通じゃない。暫くお互い距離を置くべきだと、俺は思う」
そうだ。仮に俺が本当に浮気してたとして、気にしてない風を装って檻に閉じ込めるこいつはやっぱりおかしい。狂ってる。きっと感情の発露の仕方が解らなくて暴走を続けているんだろう。俺が視界にいる限りそれは終わらない。こいつは俺なんかに狂わされていい男じゃない。
「普通って何」
「少なくとも人が人をケージに入れて閉じ込めるのは、おかしいんだよ」
「──僕から逃げられると思ってんの?」
帽子の下からすっと覗いたレッドの瞳は恐ろしいほど冷たくて、その奥にはどす黒く燃え上がるような炎が覗く。これ以上はきっと何を云っても聞いてもらえない。
レッドがさらに何か云いかけたのを無視して、俺はピジョットを飛ばした。
「待って、グ──」
その風圧に煽られたせいか。
追いかけようと足を踏み出したせいか。
捕まえようと手を伸ばしたせいか。
レッドは。
崖から、落ちた。
「え──?」
リザードンが慌てて落ちていくレッドを追いかけるが確実に間に合わない。
風に乗ってシロガネ山を離れていくピジョットの上で、俺はそれを呆然と眺めていた。
「レッド⋯⋯? レッド!!」
「お、落ち着け! あんたまで落ちちゃう!」
「レッド!! 嘘だろ!? おい! レッド!! レッド!! レッド──」
「助かんないよ! あの高さじゃ!! どうしようも出来ない! オレ達には!」
頭が真っ白になって、ひたすら名前を連呼して、意味もなく身を乗り出し手を伸ばそうとする俺をゴールドが必死に止める。
「レッド⋯⋯! あ、俺、どうしよう、レッド、そんな──」
「事故だ。あれは事故だ。あんたのせいじゃない。そもそもオレが道を間違えなきゃ⋯⋯もっと違う方法であんたを助けていれば、こんな⋯⋯」
全身が厭な感覚に支配されて、青ざめるゴールドに年上である俺は気の利いた言葉を一つも掛けてやれなかった。
誰が予想できる? あのレッドが。周りから認められて尊敬の眼差しを集めるレッドが。ポケモンと深い絆を結んで、真の強さを持っているあいつが。こんな、あっさり──?
視界が暗くなっていく。
悪夢みたいだ。悪夢だったらいいのに。
目が覚めたらいつもと変わらない朝で。最初に見るのがレッドの笑顔でも寝顔でもいい。何ならケージの中でもいい。こんな世界よりかは全然いい。
俺が全部壊して、もう二度と戻らないなんて、嘘だったらいいのに。
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