こどもごころ
その日のオレは上機嫌だった。
マサラタウンには学校がないので、オレもレッドも通信教育を受けている。その通信教育のテストが満点だったのだ。ポッポ便で受け取ったテスト用紙の点数を見たオレはすぐにねえちゃんの元へ走った。
「ねえちゃん! 見て!」
「あら、グリーン。すごいじゃない! 頑張ったわね」
「へへーん。オレはじいさんの孫だからな! これくらい余裕だぜ!」
じいさんにも見せてくる! と伝え、オレは研究所に走った。厳しいじいさんもこれはきっと褒めてくれる。優秀な孫を誇らしげに見て、頭を撫でてくれる。そんな想像をして、期待をして、オレはドキドキしていた。
「じいさん居るー?」
研究所を開けると、そこにはじいさんとレッドがいた。レッドは小さいイーブイを抱いていた。
「イーブイはレッドが気に入ったみたいじゃのぅ。こんなにすぐにポケモンに懐かれるとは、きっと将来良いトレーナーになるぞ! 一時的に預かっているポケモンなんじゃが、たまに遊んでやっとくれ」
じいさんがそう言ってレッドの頭を撫でる。レッドは少し照れて俯いて、でも嬉しそうだ。何だかそれが、すごく腹立たしかった。
「⋯⋯なんだレッドも来てたのか! おまえテストどうだった?」
わざとらしく大きな声で二人に近づく。レッドはちら、とオレを見て「82点」と返した。
「ふーん⋯⋯まだまだだな! もっと勉強した方がいいんじゃねーの? ほら見ろよ! オレの点数!」
そう言ってオレは満点のテスト用紙を二人に見せびらかした。レッドが悔しそうにしているのが気持ちよかった。でもそんな優越感はすぐにひっくり返ることになる。
「グリーンよ、勉強ばかりが全てではないぞ。家に籠もってばかりおらんで、子どもの内はもっと遊ぶべきじゃ。本当に大事なことは、本には載っとらんのじゃからな」
冷水でも掛けられたかのように急激に心が冷えていく。確かに最近はこのテストのために籠りがちだった。レッドの遊びの誘いも、勉強のことは言わずに適当に誤魔化して断っていた。でもそれは、じいさんに認めてもらいたかったからで。本当はオレだって遊びたかったのに。オレが勉強している間にレッドはじいさんに可愛がってもらっていたんだと思うと、どうしようもなく嫌な気持ちになった。
「せっきょーは勘弁だぜじいさん! それよりそのイーブイなに? マサキのとこの?」
レッドが抱えていたイーブイに手を伸ばそうとすると、ぷいっと顔を背けられる。ああそうだ。オレは研究所に来るポケモンに中々懐かれないんだった。だからじいさんはレッドの方を可愛がるのかな。
「⋯⋯まあいいや。別に興味ねーし。レッドはそいつと遊んでれば。その間にオレはどんどん先に行ってやるけどな!」
「グリーン! 研究室内で走ってはいかん!」
叱るじいさんの声も無視してオレは走って研究所を出た。浮ついた心が一気に沈んだオレは家に帰って自分の部屋のベッドに潜り込む。家を出ていった時と全く違う様子のオレに、ねえちゃんは心配してくれたのかゼリーを持ってきてくれたが、食べる気にはなれなかった。
暫くした後にレッドがオレを誘いに家に来たが、体調が悪い振りをしてねえちゃんに追い返してもらった。
ぴし、と何かにヒビが入る音がした。
***
じいさんの研究を覗こうと研究所へやってきたオレは驚いた。鍵は開いていたのに中には誰もいなかったからだ。多分出かけるときに閉め忘れたんだろう。いくらこの町に悪人がいないからって、さすがに不用心だ。でも今なら誰にも咎められずに見学し放題。オレはうきうきとしてレッドを呼びに走った。
レッドのお母さんが笑顔で迎えてくれて、二階にいるレッドを呼んでくれた。
「よおレッド! な、研究所いまみんな留守にしてるみたいだぜ。パソコンで、珍しいポケモンとか見れるかも! もちろんお前も行くよな?」
レッドは興味を惹かれたようですぐに「行く」と返事をする。快い返事にオレはうなずいて、一緒に研究所へ向かった。
残念ながらパソコンはロックが掛かっており開かなかった。つまんねーの、と口を尖らせていると、後ろからぱりん! とガラスが割れるような音がした。
振り向くとレッドの周りに瓶の破片と零れた液体が広がっている。レッドは明らかに「やってしまった」という顔をしていた。
「あちゃー、お前絶対怒られるぞ」
とりあえずオレは立ち尽くしているレッドの元へ近寄った。
「どうしようこれ」
「オレ知ーらね!」
頭の後ろで手を組んでそう突き放すと、レッドは不満そうに口を曲げた。
するとガチャ、と研究所の扉が開かれた。じいさんと助手たちが帰ってきたようだ。
じいさんは床に散らかった瓶の残骸に気づき、オレを睨めつけた。
「グリーン! だから何度も研究室内で走っちゃいかんと言っただろう!」
「──は?」
一瞬どうして怒られているのか理解できなくて呆気に取られていたが、どうやらじいさんはオレが割ったんだと思ったらしい。
あまりの理不尽さに、わなわなと身体が震えた。
「なんでオレって決めつけるんだよ! オレじゃねーし! レッドが割ったんだ!」
「グリーンよ、わしは何も意地悪で言っておるわけじゃないぞ。おぬしがちゃんと大人しくしていれば割れてしまうことも──」
「だから! オレじゃねーって言ってるだろ!?」
「あ、あの──」
白熱していくオレとじいさんの間を割るようにレッドが声をあげた。
「博士、ごめんなさい、僕が割っちゃったんです」
「レッドよ、そうなのか?」
「はい」
「⋯⋯全く、怪我が無くてよかったわい」
「な──オレが割ったらめちゃくちゃ怒るくせに! なんでレッドには優しいんだよ!」
オレが憤るとじいさんは、日頃の行いじゃ、と言いつつ呆れた目をこちらに向けた。
「そもそも留守にしている研究所に入ろうと提案したのはどうせお前じゃろう?」
「そ、そうだけど⋯⋯」
そうだけど、でも、レッドだってノリノリだった。止めようとすらしなかったんだから、オレと同罪だ。なのに、どうしてオレだけこんな思いをしなきゃいけないんだ?
気遣うようなレッドの視線すらイライラして、オレは床に散らばった破片の一つを思い切り踏んづけて粉々に割ってから無言で研究所を出た。
背中から聞こえるじいさんのため息に、泣きそうになった。
ぴし、ぴし、と、オレの中の何かがひび割れていく。
***
「僕がやろうって言ったんです」
思いの外レッドが素直に告白するのでオレは目を丸くした。
オレとレッドは今、町の人達に仕掛けて回ったイタズラがバレてじいさんに説教を受けているところだった。いつものようにレッドを呼び出して遊んでいたら、イタズラなんて珍しくも不良な提案をしたから、喜んでオレは乗ったのだ。
どうやって説教を早めに終わらせようか、躱そうかと考えていた矢先、レッドがオレを庇うように素直に自分が考えた企みだったと認めたので、驚いていた。
「⋯⋯子どもの可愛いイタズラだろ? あんま怒ってばかりだとハゲちまうぜ!」
だからオレは、レッドばかりが叱られないよう茶化してフォローを入れた。
でもじいさんはレッドを叱るどころか、また呆れた目をオレだけに向ける。その目に失望の色を見つけてしまいそうで、思わず怯んだ。
「どうせお前が唆したんじゃろう。レッドよ、何でも付き合うことはないんじゃぞ。悪い影響を受けでもしたら、親御さんに申し訳が立たん」
「──っ!!」
常と変わらない理不尽な物言いに文句を言おうとしたのに、声が詰まって出なかった。こんな風に言われるのは慣れているはずなのに、普段なら文句を言うにとどまるのに、何故だか今日は大きな感情の波が襲ってきた。
なんでいつもいつもいつも、オレばっかりが悪いみたいに。 今回のイタズラはレッドの意志だったって、本人も認めてるのに。 まるでオレがそうさせたみたいじゃないか!
オレが何か成し遂げても全然褒めてくれないのに、レッドのことは褒める。レッドが何かやらかしても大して怒らないくせに、オレにはめちゃくちゃ怒る。レッドが悪いことをしても、全部オレが悪かったことになる!
視界がどんどん歪んでいって、泣きたくなんてないのに、自分の意志とは無関係に涙がぼろぼろと零れていく。もう何も考えられなくなって、しゃくりを上げながら、衝動のままに口から望まない言葉が滑り出していった。
「なん、で──っ! なんでいっつも! オレ⋯⋯っ、ばっか! そっ⋯⋯そんなに、レッドがいいなら⋯⋯!」
「オレなんて捨てて、レッドを孫にすりゃいいんだ!!」
最後はもう絶叫に近くて、感情がぐちゃぐちゃになって、全てから逃げ出したくて、オレはひたすらに走った。
ただでさえ息苦しいのに全力で走ってしまったものだから、酸欠でくらくらしてきたのを近くの木に手をついて必死に落ち着けようとする。ゆっくり息を吐こうにも、ひっひっと呼吸が上擦ってうまくいかない。
木に縋るように座り込んでほんの少し落ち着いてきたところでオレは気づいた。何も考えずに走っているうちにマサラタウンの外まで出てきてしまったことに。道中で野生のポケモンに襲われなかったのは奇跡だ。
空が茜色に染まっている。どこからか唸り声が聞こえる。どうしよう。ポケモンを持たずに町の外へ出るのは危険だと、何度も何度も教えられてきたのに。これじゃあ帰れない。どうしよう。あんなこと言ってしまって、本当に見捨てられたらどうしよう。レッドを可愛がって、馬鹿なオレなんて、どうでもいいと思って、このまま誰も迎えに来てくれなかったら──
どんどん薄暗くなっていく世界が怖くて、膝を抱えて全部を遮断してただ耐えた。
怖い。
野生のポケモンに襲われるかも、とか、このまま飢えて死んじゃうんじゃないかとか、そんなことよりも何よりも。オレはただ。
独りが怖い。
オレがまだ文字すら読めないほど幼かった時、突然両親がいなくなった。変な匂いのする場所に連れて行かれて、もう二度と親には会えないことを教えられた。みんな黒い服を着ていた。憐れむようにオレを見ていた。意味がよく分からなくって、涙ぐむねえちゃんを見るのが嫌で、なんとか笑わせようと明るく振る舞った。それでも表情は変わらなくって、オレが何かを言う度に周りの大人は一層哀しげにこっちを見てくる。
黒一色のその世界で、オレは孤独だった。人がたくさんいたのに、確かに孤独だった。いきなり知らない世界に放り込まれたようで、ただ怖かったことを覚えている。
それ以来オレは独りが怖い。
だからどんなにレッドに嫉妬しても腹が立っても、オレはレッドから離れられない。どんなにじいさんに呆れた目を向けられても、認めてもらおうと抗ってしまう。
そんな弱い自分を知られたくなくて、強がって見せている内に、何もかもが壊れていく。
──レッドを孫にすりゃいいんだ!!
自分でも狡い言葉だと思う。孫にしたくても、出来ないんだから。血の繋がりは変えたくても変えられないんだから。
もっとオレが強ければ。子どもらしく振る舞って、博士の孫らしく優秀な成績を打ち出して、何もかもを完璧に、レッドよりも先にこなしてそして──
世界で一番強くなれれば。
こんな思いをせずにすむのかもしれない。
「見つけた」
上から降ってきた言葉に顔を上げれば、息を少し上がらせたレッドがいた。
「帰ろう、グリーン」
「⋯⋯帰りたくない」
涙でぐちゃぐちゃになった様を見られたくなくて膝に顔を埋めながら、つい思っていることと正反対のことを言う。
「オレのことなんて放っておいて、じいさんのとこにいろよ。お前はオレと違って──期待されてるんだからさ」
かさ、と草が擦れる音がしたかと思うと、膝をついたレッドがオレに覆いかぶさるように肩を掴んだ。びっくりしてまた顔を上げると、思いの外に近くにあるレッドの瞳から目を逸らせなくなる。静かで澄んでいて、でも意志の強さを感じさせるような瞳が真っ直ぐにオレを見つめていて、吸い込まれそうな気分になった。
「君は、僕のことライバルだって言うくせに、博士ばっかり気にする」
レッドは困ったように笑って、そのままゆっくり近づいてきた。目を手で覆われて、何も見えないまま、ほんの一瞬だけ唇に何かが触れた。
その時だった。
がさっと草むらから長い牙を持ったポケモンが現れる。こちらに向かって敵対心むき出しで毛を逆立てた。
レッドはオレを立たせて、オレを後ろにかばうようにそのポケモンの前に立ちふさがる。その手は少し震えていて、オレのせいでレッドまで危険に晒している事実に情けなくなった。
「下がっておれ!」
慌てて駆けつけたじいさんが、モンスターボールをそのポケモンに投げて捕まえた。静かに止まったボールを拾って、無言でこちらにやってくる。
ああ、怒られる。またオレは失望されて──
ぎゅっと目を瞑っていると、温かいぬくもりが身体中に広がって、じいさんの「無事でよかった」という言葉にようやく抱きしめられていることに気がついた。
「じ、じいさ──」
「草むらはいつ野生のポケモンが飛び出してくるか分からんから危ないんじゃ」
「ごめ、ごめんなさ──」
「いい。わしが悪かった。お前にはちいと厳しくしすぎた」
ささくれだっていた心が溶けていく。視界はじいさんの白衣でいっぱいで、ちゃんとオレを見てくれていたことが解って嬉しくて、オレはじいさんにしがみついた。
だからオレは、その時のレッドがどんな顔をしていたのか、知ることはなかった。
***
月明かりの下で、じいさんとレッドと共にマサラタウンへ戻る。遠くまで走ってきたように思っていたが、意外と距離は短かった。
家の近くまで来ると、じいさんはさっさと研究所に戻ってしまい、オレとレッドだけが取り残された。
家に入ろうとしたレッドの裾を咄嗟に掴んで引き止める。
少し驚いたように目を開いてこちらを振り返ったので、オレは地面を見つめながら謝った。
「その、ごめん。いろいろと、悪かったな」
「別に──いいけど」
「でも、オレはこれからも絶対にお前には負けない。例えじいさんがお前贔屓でも、全部お前より先にこなして、強くなって、全員見返してやる」
そう宣戦布告をすると、レッドは小さくため息を吐いた。さすがに呆れられたかと思っていると、レッドはオレの右手首を掴んで自分の胸の方へと引き上げる。レッドの今まで見たことないくらいに強い視線がオレを射抜いて、掴まれた手首が痛くて、ぞくぞくと何かが背中を這い上がった。
「なら僕は、全力で追いかけて、絶対に君より強くなってやる」
「──上等だ」
レッドの手を振り払って、オレは嗤った。
孤独を耐え抜いた先に幸せがあるなら、きっと独りでも強くなれる。
こいつとはもう"仲の良い友だち"じゃない。
じいさんに期待されているこいつには絶対に負けない。
そうしていつか、いや、近い将来必ず、この、オレが。
──世界で一番強くなってやる。
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