いぞんごころ #1
チャンピオン戦でレッドに敗北した後、リーグの外でオレは改めて四天王に挑戦しようとしていた。どうしてもレッドに負けたことが受け入れられなかったのだ。
いや、最初は受け入れようとした。もちろん、自分の育て方が間違っていたとは思えなかったし、一瞬で頂点の座を失ってしまったことはショックだったけど。目の前が暗くなりながらも、お前がチャンピオンだ、という言葉を絞り出した。でも。
──グリーン、残念だ!
──四天王に勝ったと聞いて飛んできたのに、ポケモンリーグに着いてみたらお前は負けとった!
今までに無いくらいはっきりと分かる失望の声。じいさんが喋り始めてから、オレは一言も声を発することが出来なかった。ただただ息苦しかった。
──何故負けたのか分かるか?
──ポケモンたちへの信頼と愛情を忘れとるからだ!
オレが負けたからそんなことを言うんだと思った。レッドに対して成長した大人になったポケモンを理解していると褒めちぎるのは、レッドが勝ったからだと思った。
オレはレッドに笑顔を向けるじいさんの横顔をじっと見つめる。それはオレに向けられるはずだったのに。
やっぱり強くならなきゃこの苦しみからは逃れられないんだ。
だからオレは汚名返上すべく、またリーグの入り口に立っていた。本当は鍛え直してから出直すべきだが、身体を支配する不安や焦りを一刻も早く拭い去りたくて、レッドに負けたのは運が悪かっただけだと思いこむことにした。
深呼吸を一つして、四天王への扉へと歩みを進めようと思ったら、突然扉が開かれて中からレッドが出てきた。
チャンピオンになったはずなのに何故ここにいるんだ?
レッドはオレに見向きもしないで、さっさと通りすぎてしまう。レッドのピカチュウがそのすぐ後ろを着いて行く。オレは慌てて腕を掴んで呼び止めた。
「ま、待てよ! どこ行くんだよ! まさか、勝ち逃げするつもりじゃないだろうな」
レッドは振り返ることもなく、「強い相手と戦える場所に行く」と言って、オレの手を振り払う。
それはつまり、オレは強い相手に当てはまらないということだ。
短いその言葉はオレの心とプライドを傷つけるには充分だった。
「チャンピオン戦でオレに勝ったからって調子乗るなよ。すぐに今度はオレがその座からお前を引きずり下ろして──」
最後までは言えなかった。レッドがまるでオレなんて居ないみたいにまっすぐ前を見て先へと歩くから。ああ、厭だ。この感覚は嫌いだ。相手がいるのに一人きりみたいな、この感覚は。
待てったら! とオレはもう一度腕を掴んでしつこくレッドを止める。
「オレともう一度バトルしろレッド! おい! レッド⋯⋯! 何でさっきから一度もこっちを見ないんだよ⋯⋯なあ、なあってば! ──オレを見ろよ!!」
レッドはようやく、ゆっくりと顔だけをこちらに向けた。やっと向けられた視線にオレはぞくりとした。こいつ、こんな目してたっけ? ポケモンたちに対する優しいまなざしとは打って変わって、その瞳には憎悪がちらついている気がした。どうして勝ったお前がそんな顔するんだよ。視線をオレから全く逸らさずに、レッドは口を開く。
「グリーンはどうして僕に勝ちたいの」
「そりゃ、強いトレーナーなら誰だって頂点に立ちたいだろ? それにお前はオレのライバルだから、負けっぱなしなんて絶対に嫌だ」
「違うだろ」
「な、何が──」
「君はただ博士に認められたいだけだろ。君の承認欲求を満たすために、ポケモンを戦わせたくない」
カッと顔が熱くなった。
何も言い返せなかった。
オレは昔からただ、じいさんに認められたかった。
そのために焦ってポケモンを強くしようとして、進化のための石を見つければすぐに使って強くした。落ち着いてちゃんと鍛えてやれば、もっと力を引き出せてやったかもしれない。
今のこの状況も、レッドに負けたのも、全ては己の欲求を満たすことだけを考えていたせいだ。それをレッドに気付かされることが、レッドに気づかれていることが、たまらなく悔しくて惨めだった。
レッドの腕を掴んでいた手が震えてくる。それでもオレは離せない。離してしまえば、こいつはどこかへ行ってしまう。オレを置いて。ポケモンでも、人でも、身近だった相手に置いていかれるのはもう嫌だ。
引き止められるような言葉を必死で探していると、レッドはオレに向き直り、頭を掴んでじっとオレを見る。まるで観察されてるみたいだ。
「れ、レッド?」
「ここではもう君と戦わない。僕は、博士の居ない、誰も居ないところで待ってる。君が本当に僕と戦いたいだけなら、そこでバトルをすればいい」
「あ──」
乱暴にオレを突き放して、今度こそレッドは行ってしまった。
「レッド⋯⋯」
「──オレを、置いていくなよ」
呟いた言葉は誰にも届くことはなく、ただセキエイ高原を吹き抜ける風に運ばれていく。
しばらくじっと地面を見つめていると、後ろから影が伸びてきた。
「道の真ん中で座りこまれちゃ困るんだけどな」
振り返って顔を上げれば、四天王の大将が苦笑いで立っている。
「あ──えっと」
「四天王のワタルだ。せめて名前くらいは覚えてくれよ」
「⋯⋯⋯⋯」
「負けて悔しいのは解るが、ここにいたら皆通りづらいだろう?」
「⋯⋯⋯⋯」
ワタルが何か言っているが、オレはもう完全に惚けてしまって、話が上手く耳に入ってこなかった。ぼうっとしているとワタルがしゃがみ、オレの腕を掴んで目線を合わせてくる。
「グリーン! しっかりしないか。折角俺がいい話を持ってきてやったのに」
「いい話──?」
「ああ。トキワジムのリーダーにならないか?」
あまりにも唐突すぎて、一瞬何も考えられなかった。確かにトキワジムは、リーダーがいなくなってしまって空いている状態らしいが。
「なんで、オレ?」
「実力は申し分ないし、案外君はそっちの方が合ってるんじゃないかと思ってね」
「でも、オレ、負け──じいさんに、オレが、負けたのは──」
「君が負けたのは、彼が君より強かったからだ。ならば、やることは一つだろう? もっと強くなればいい。君の──ポケモン達と一緒にね」
そう言って笑いワタルは立ち上がった。
陽光に照らされたその姿はまさに上に立つものの風格があって、なんだか羨ましくなる。
この男はオレに負けたはずなのに。どうすればこんな風に強くなれるんだろう。
「君ならカントーで最強のジムリーダーになれるよ」
「最強⋯⋯?」
「ああ。さあ、どうする? トキワジムのリーダーになって成長を続けるか、尻尾巻いて全てから逃げ出すか。君が決めるといい」
オレは──
***
チャンピオン戦でレッドに敗北してから三年という月日が経とうとしていた。
その年月の間に、オレは『一瞬でチャンピオンの座を失った男』から、『カントー最強ジムリーダー』に見事塗り替えてみせた。
それなのにオレは未だに独りでジムの奥に立っている。
オレはもう、じいさんに執着するのを辞めた。自分のポケモンとちゃんと向き合うために必要なことだと思ったからだ。一匹一匹、どういう鍛え方が良いのか、何をすれば喜んでくれるか、考えながら接している内に、前よりもずっと心が通じあえた気がして嬉しくなる。今オレが二本足でしっかりと立てているのは、こいつらのおかげとしか言いようがない。昔レッドから奪ったイーブイも──今はサンダースだ──ようやくオレを許してくれたようだった。
そうして、じいさんに認められるという目標を無くしたオレの脳内を次に占拠したのはレッドのことだった。陳腐な表現で例えるならば、居なくなって初めてその存在の大きさを知った、というやつだ。
会いたい。会ってバトルしたい。
実を言うとオレはレッドの居場所を知っていた。というより、察しがついていた。
レッドが船を利用した形跡はない。リーグから歩いて行ける、強い相手と戦える場所なんて一つしか無い。シロガネ山だ。
シロガネ山のどこかに絶対レッドはいる。
何度も会いに行こうとした。
でもその度に、セキエイ高原でレッドに突き放されたことを思い出して、なんとなく行く気力を失くしてしまう。
その代わりのようにオレは、火山の影響で誰も居なくなってしまったグレン島に通っている。それ以外にも、できるだけジムに居なくてもいいような言い訳を探してあちこち歩き回っていた。
このジムは広くて入り組んでいて、まるで自分の心の中のようで居心地が悪い。しかもレベルが高いと噂になっているからか、挑戦しにくるトレーナーは滅多に来ない。来たとしてもジムリーダーという立場のせいで本気を出せないので、かなりストレスが溜まる。旅を始めた頃からまだオレは、レッド以外に全力で戦って負けたことがない。
だからオレはジムに居たくなかった。カントーを巡ることで、旅をしていたあの頃に浸っていたかったのだ。
だけど今日は、ある少年を待つためにこの場所に立っている。
ジムリーダーという立場をこっそり捨てて、全力を出して戦ってやろうと思っている。
バンっとジムの扉が勢いよく開かれた。
自信と余裕の笑みを乗せて、ポケットに手をつっこみながら歩いてきた少年が、オレが待っていたやつだ。腕を組んで出迎えてやる。
「よお、来たな。グレンじゃちょっとナーバスになったけど、今は無性に戦いたい気分だぜ!」
この少年とは、グレンの様子を見に行ったときに出会った。ひと目で強いトレーナーと分かったオレは久々に心に湧き上がるものを感じて、戦いたいならトキワジムへ来い、と誘ったのだ。その場で戦っても良かったが、あの島で戦うのはなんとなく嫌だった。
名前はゴールドというらしい。ゴールドは帽子を指でくるくる回しながら、まっすぐにオレを見据えた。
「⋯⋯あんた、ジムに戻んないんじゃないかと思ってヒヤヒヤしたけど、ちゃんと戻ってきてくれて良かったよ。ここのバッジだけまだだったからさ。ジョウトは全部揃ってるのに、カントーは欠けてるなんて、気持ち悪いじゃん?」
勝つことを疑わない様子に、オレは鼻で嗤った。
「お前がジョウトを制覇したって? ジョウトのレベルが低いんじゃねえのか?」
そう挑発すると、ゴールドはぴくりと片眉を上げる。漏れ出る殺気にオレの熱も上がっていく。久々に全力で戦って、気持ちのいい勝利を得られそうだ。
「まあいいさ。戦えば分かることだ。お前の実力が本物かどうかはな!──行くぜ!」
そして結果は信じられないことに、オレの敗北だった。
──そんなバカな!
「オレがこんなやつに負けるなんて!」
全力を出して、レッド以外に負けるなんて初めてだった。
苛立ちを隠さずグリーンバッジを投げ渡すと、ぱしっと受け取ったゴールドはそれを天井のライトに掲げて嬉しそうに眺めた。
「よっしゃ! これでシロガネ山に行ける!」
「シロガネ山?」
「おう! シロガネ山には強いポケモンが沢山いるらしいし、腕試しには丁度いいと思ってさ。強いトレーナーじゃないと通さない、なんて言われたけど、これなら文句ないだろ? あんたは行ったことあんの?」
「いや──」
否定すると、ゴールドは少し意外そうな顔をした。
「ふーん、強いし行ったことあるかと思ったけど。まあいいや。バッジサンキュー! 正直、ジムリーダーの中で一番楽しかったよ」
笑顔で手を上げて出ていこうとするゴールドをオレは「待て」と呼び止める。
「オレが間違ってたよ。お前の実力は本物だ。素直に認めるぜ! だが忘れるな。いつかオレがお前を倒すからな! ⋯⋯それまで負けるんじゃねーぞ!」
負け惜しみを叫ぶと、ゴールドはにやりと笑って、「もちろん!」と叫び返し、今度こそジムを出ていった。
負けたのは尋常じゃなく悔しいが、不思議と心がすっきりとしている。それはオレの心境の変化からか、あいつが心からバトルを楽しんでいたからなのか解らないが、とにかく久々に思い切り戦えて楽しいバトルだった。生意気ではあったが悪い奴じゃないことはバトルを通して解ったし、なんだか良い友人になれるような気がした。
あいつはシロガネ山で、レッドに会うだろうか。
唐突にフラッシュバックしたのはあの日の言葉。
──僕は、博士の居ない、誰も居ないところで待ってる。
──君が本当に僕と戦いたいだけなら、そこでバトルをすればいい。
ゴールドがシロガネ山に行ったあとで会いに行ったら、レッドはなんて思うんだろう。それに二人がバトルすれば、どちらかは必ず負ける。
不安になった。
ゴールドよりも先にレッドに会わなくちゃいけない気がした。
***
シロガネ山の最奥にレッドは居た。
大きな山肌の前で、影に潜むように立っている。
その後ろ姿は殺気と威圧に満ちていて、わけもなく緊張した。
小さくレッド、と呼びかけるも微動だにしない。深呼吸を一つして、意を決してオレは叫んだ。
「レッド!!」
すると勢いよくレッドは振り返って、オレを認識すると、殺気をふっと散らして嬉しそうに笑った。「グリーン!」とそのまま駆け寄って、オレを抱きしめる。
「会いたかった」
──会いたかった?
オレは混乱した。こんな、感動の再会が出来るような別れ方じゃ無かったはずだ。お前が突き放したくせに、会いたかっただって?
レッドの態度に怒りが湧いておかしくないのに、怒りどころかオレは、レッドの受け入れるような笑顔に安堵して、久々の人肌に満たされてしまった。
空虚な心や嫌いな孤独から救ってくれるその存在の背中に、恐る恐る手を回す。
「⋯⋯オレも」
「うん。良かった。グリーンが僕を選んでくれて」
選ぶ? 何か変だ。何かがおかしい。レッドの話がよく解らない。
「レッド⋯⋯? 何の話──」
「グリーンも僕のこと好きだと思ってくれて、本当に良かった」
なんだ? リベンジマッチの話じゃないのか?
混乱しているオレに気づかないまま、レッドはあろうことか、オレの頬に手を添えて──キスをしてきた。
「ん──」
それは何だか前にも一度味わったような感触で、全く意味が分からなくて、でも抵抗して突き飛ばせば一生オレは独りになってしまいそうな気がして、何も出来ずにされるがままになった。
でもレッドがオレの唇を舐めきたから、さすがに慌てて顔を逸らす。
「ま、待て、レッド。その、人が、人が来るから⋯⋯!」
「誰も来ないよ」
「く、来るんだよ! ゴールドってやつが、多分、これから」
「⋯⋯ゴールド? 誰それ」
さっきまでの優しい空間が嘘のように空気が張り詰めて、怖くなった。レッドを、レッドなんかを怖いだなんて、思ったのは初めてだ。
「ジョウト出身で、黒と黄色の帽子かぶったトレーナーのガキだ」
「ああ──それならさっき来た」
「──え?」
「大したことなかったよ」
「──は?」
全力のオレを倒したゴールドを、大したことないだって?
こいつはどれだけ強くなったんだ?
「僕を満足させられるのは君だけだ」
やめろ。そんな目でオレを見るな。
「⋯⋯震えてる。 もしかして寒い? リーグでも上着羽織ってたもんね。カッコつけてるだけかと思ってたけど寒いの苦手?」
「あ──ああ、ちょっと、寒い、かな。──悪い、オレ、出直してくる」
ゆっくり二、三歩後ずさると、レッドは哀しそうな顔をした。
「そう? 寂しいな⋯⋯無理に引き止めはしないけど。また近い内にバトルしよう。あと、もし君が良ければ、ここで一緒に過ごさない? できるだけ暖かくなるようにするし、案外ここって居心地がいいんだ。余計なものが何もなくて。グリーンも気にいると思う」
「あ、その、オレ、ジムリーダーやってるから⋯⋯」
「⋯⋯ジムリーダー?」
「トキワジムの、リーダーやってんだ、今。だから⋯⋯」
「へえ⋯⋯なら仕方ないね。──じゃあ、またね」
レッドの口調は穏やかなのに、妙な緊張感に支配されて、つ、と背中に嫌な汗が流れる。
オレは逃げるようにシロガネ山を下りた。
もっと、もっと強くならないと。
あいつがまたオレを置いていかないように、オレだけを見るように、どうでもいいと思われないように──強くならないと。
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